震災で遺すべきは、悲惨な記憶よりも、危機感の喪失をこそ

3月11日を過ぎて、震災からこれまでの多くの振り返り番組が組まれていたことと思います。

そこでの締めくくりは、この悲惨な状況を忘れない、ということが大勢だったのではないでしょうか。

が、現地の人は忘れたい、ということもあったり、そこには被害者とそうでない側との思いの対立があるように思います。

このことについては、折り合いをつける必要ないと思います。それぞれの立場からの、それぞれの認識があるのみなのですから。

そして、その立場の違いを理解したうえで、お互いが配慮をしながら付き合っていくということで十分でしょう。

「死」は遺すべきものではない

で、本当に遺していかなければならいことは何なのか。これを改めて考えてみたいと思います。

それは決して「悲惨な体験の記憶」などではありはしないと思います。それは残りすぎるほど残っているからです。

また死者に対する哀悼の意でもないと思います。「死」は、物理的に必ず忘却されるからです。

また「死」は忘却されなければならないことでもあります。だから「死」に対しては儀式が用意されているのです。

試しに個人の葬式を思い出してみるとよいでしょう。

死者に対する儀式とは、せめてそのあいだに悲しみに浸りきることで、生者側が気持ちのけじめをつけるためのものです。

よって儀式の目的は、「死」の悲しみを思い出すことでもなければ、その「死」を背負って気持ちをあらたにすることでもありません。

そんな儀式がこの社会に存在するということは、つまりはケジメをつけて忘れることが、社会生活をするうえで必要であると言われているに等しいと思います。

さらに元も子もない話として、「悲しみの記憶」はせいぜいもって、直接体験した世代、つまり一世代限でありましょう。

この「一世代限」の記憶をいつまでも特集番組を組んで訴えるのはいとも簡単ではありますが、それが非生産的な訴えであることは、66年前の戦争に対してのそれが今に教えてくれていることでしょう。

本当に遺すべきものとは

今回の震災において、悲惨な記憶より以上に残さなければならないものがあると私は思います。

それは、経済的繁栄による「危機感の喪失」とでも呼ぶべき精神状態が、我々を、多くのことに対応不能にしてしまったという事実です。

震災により炙り出されたことは、思い出してみるとこのようなことがありました。

・食料の買占めという、危機対応力の欠如
・放射線報道によるパニックに見る科学的知識の不足
・原発からの撤退を申し出た東京電力の無責任
・原発の電源喪失リスクに対する考えの甘さ
・外国勢力の領土侵攻の対応への無能力

共通するのは、昨日と変わらぬ今日が続くがゆえに、特に備えをしない、といった具合の、非常事態に対する社会レベルでの思考停止と、それに順応してしまった個人の精神的な無防備さであるといえます。

この思考停止と精神の無防備さゆえに、「危ない」ものに対しては、その裏返しを求めるという反応しかできなくなってしまって「も」います。

「物資不足」に、被災地から遠く離れてその心配もないのに買占めがおきました。

「リスク」への考え方・付き合い方の議論をすっ飛ばして「止めてしまえ」ということになりました。

「原子力」が故郷喪失のリスクを抱えながらも、安全保障とのバランスの問題であることが議論されず、ただ「生命を脅かす」問題としてのみ扱われました。

隣国からの国境地域への挑発があったにもかかわらず、領土喪失による資源の喪失といった危機について広く議論がされるには至りませんでした。

今回の大震災をして後世に伝えるべきものは、「危機感の喪失」がこのような状態をもたらすのだという事実そのものではないでしょうか。

大震災は、我々の精神的な問題を炙り出してくれた

「悲惨な記憶」は、記録に残しておけば、そのことがまた同じことを繰り返すのを防ぐ判断材料になります。

が、大震災は、その判断材料があるから次は防げる、という次元に留まらない、我々の意識の問題を炙り出してくれたと思います。

今を生きる世代だけでなく、後世にも引き続きつきまとうであろうこの問題を、いつまでも未解決のままでいると、いつか取り返しのつかない事態になるのではないかと私は危機感を覚えました。

この問題、危機感の喪失がもたらす影響をこそ、震災から学びえた遺すべきことなのだと私は思います。

おすすめの記事