記憶は風化する。節目に想起すべきは教訓以外にない ~東日本大震災10年目~

2021年3月11日で、東日本大震災から10年が経ちました。

この節目に、マスメディアは特集番組を組んだり、ニュースで取り上げたりするのですが、最近のテレビや新聞やネットニュースなんかを見ていますが、ざっくり言うと、

「悲惨な記憶を風化させるな」「当時の個人の葛藤」という記事が殆どで、真の意味で「震災の教訓」を報道したものは、私が見た限り無かったです。

これには呆れ果てました。

災害を扱ったものについては、どう考えても、次に未来で起きたときにどうできるかを目的とすべきで、

「風化させるな」とか、生き残った人の心の中を報道されても、社会全体としては何の意味もないと思います。亡くなった方たちも浮かばれないでしょう。

「記憶の風化阻止」「当時の個人の葛藤」は、戦争についてとまったく同じ

そして、東日本大震災10年目の報道内容は、本当に殆どのこの2つの記事しか目にしないような印象なのですが、

「記憶の風化阻止」「当時の個人の葛藤」

これって、なにかすごく何かに似てるな、と感じたのですが、そうです、先の大戦の振り返りの報道の仕方とまったく同じなのです。

「悲惨な戦争の記憶を風化させるな」「原爆の記憶を風化させるな」「当時の人の証言」

これって、念仏のように唱えていても何も意味がないことは、戦後76年たって、中国が領土侵犯を繰り返してきたりしてきている状況のなか、誰もが認識してきているのではないでしょうか。

それをキッカケとして、具体的なアクションを促していかなければ何も変わらないと思います。

更に言うならば、

1つめの「風化をさせるな」で言えば、人間の記憶が風化するのは自然の成り行きで逃れようがありません。

自然に抗ったところで、まったくの無意味です。しかも当事者以外においては、痛い思いをしないと、他人の痛さなんて分からない、という人間の事実が忘れ去られてます。

だから、そのときの教訓を後世に残せばいいはずです。というか教訓以外に遺せるものはないと思います。

なぜなら、直接の被害にあっていない人も含めて、社会的経験値・社会的ナレッジにすることこそが、社会全体が進歩でき得る唯一の方法だからです。

バカのひとつ覚えみたいに「風化させるな」と言っているのは、本当に馬鹿だと思います。起きてしまったことを繰り返し言うのは頭を使っていません。頭を使うとうのは、ではどうすればいいか、を考えることです。

「当時の人の証言」も同様です。

これ自体に価値がないと言っているのではありません。

10年たっても20年たっても、それだけを言い続けることに意味がないと言っているのです。

当時の証言から得られる教訓や、建設的に「ああしたら良いのではないか」という議論をしたり考えたりして、未来に対して「その証言」を役立てることに意味があるのです。

「当時の人の証言」をずっと言ってるのなんて、個人レベルで考えたら、その人の怪我自慢とか苦労話の程度がすごい版です。

「その証言」を役立てて、いま復興の現場ではどのような取り組みがなされているかを紹介したり、「その証言」がなければ分からなかったことなどを報道してはどうかと思います。

今のメディアの報道の言いっぱなしの無責任さは、目を覆いたくなります。

東日本大震災からコロナで得た個人的な教訓

私のブログが、ちょうど東日本大震災のときはすでに記事を書いていたので、そこに書いてあることを一例として挙げると、

たとえば2020年初からコロナ流行についての報道において、「マスコミに扇動される国民」という構造は何も変わっていません。国民を扇動してしまっているので、社会的には、国民もメディアも、何の教訓も活かせていないと言えましょう。

たとえば放射線報道で、国民の不安を大いに煽ったことについての当時のブログを引用しておきたいと思います。

記憶の糸_過去記事マスコミの原発・放射線報道のあり方を批判す

情報隠蔽もダメなら、このような前提条件抜きの情報や、危険の基準を示さない情報の報道の仕方もダメだと思います。

マスコミは、危険情報の報道のあり方を考えるべきだと思います。

放射線量も、「都内で○○倍」というのも、人体に影響があるのは「△△倍まで」というような情報は常にセットとすべきでしょう。

こういう根拠がなくて不安だけを煽るような報道には、本当に憤りを覚えます。

危険情報については、

 ・対象となるのは誰か
 ・対象とならないのは誰か
 ・危険度の基準は何か

という点を明確にして報道すべきだと思います。

フジテレビなどでは、早いとき(水蒸気の放出時)から風向きだけを報道して、放射性物質の拡散を想起させる報道があったように思いますが、これなどもっての他ではないでしょうか。

コロナにおける報道では、新規感染者数と言っても、検査の分母が全然わからないし、年齢別なども全然わからなくて、絶対値だけが報道され危険が煽られたと言えましょう。

こんな状況を作り出さないようにするのが、たとえばメディア自身の「震災の教訓」ではないでしょうか。

また、震災のときと同じように、買い占めが置きました。

これは、Twitterの投稿から端を発して広がっていたのは、震災のときとまったく同じ構造です。

これなどは、国民の側が、社会的に「震災の教訓」や「デマに対する教訓」を活かせていないのだと思います。

社会にとって遺したほうがいい情報とは何かを真剣に考えた方がいい

東日本大震災のときも記録しましたが、既存のメディアは、基本的には「今この瞬間に起きている事実」を垂れ流しているだけです。

記憶の糸_過去記事放射線報道から教訓を得る ※事実の垂れ流しは不安を煽るのみ

そして、それに加えて「視聴率を稼ぐ」「よりクリックしてもらう」というようなバイアスがかかっているのかもしれません。

結果的に、不安を煽るだけの記事や、お涙頂戴的な記事に溢れていて、建設的な記事は殆ど見当たらないと言えます。

それによって、国民は振り回され、無用な精神的な不満を抱えたり、隣人同士のあいだに心理的な軋轢を作っていっているとしか見えません。

このように国民の感情を、悪い方向にもっていくような報道は害悪ではなくて何でしょうか。

これからは、建設的な情報とは何か、ということを、メディアが無理なら個人レベルでも残していった方がいいと思います。

私は、自分自身にとってのその記録を、このブログ(記憶の糸)の紡いでいきたいと考えています。

「建設的」とは何か。それは、個々人の意欲や生活や行動や判断を促進する何か、だと思います。

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