選挙がいよいよ明日ですね。
政策面以外のことでも、政党の乱立とか、投票率とか、一票の格差とか、いろいろ問題があると思いますが、ここで一度そもそもの議会制民主主義について考えておきたいと思います。
改めて、議会制発祥のイギリスの哲学者 J.S.ミル(『代議制統治論』)を手に取りましたが、掻い摘んでまとめると次のようになるかと思います。
議会制民主主義は、有権者は自分より優れたる代表者を選出して、国政を委ねます。
そして国政の場においては、多数決で物事を決めるルールですから、当然のことながら代表者の多数派が主導的に物事を決めて進める、ということになります。
そして「物事を決めて進める」その結果が、よくないと有権者が判断すれば、次の選挙では落選し、よりよいと思われる候補者が当選する。
結果として、国政の議会の場では、代表者ならびに政策の質が担保される、というものです。
代表者の質が担保されるには
とはいえ、そもそも代表者の質が担保されるには、とりもなおさず選挙民の質がよいということを前提とします。
だから選挙民の質 ― J.S.ミルが特に強調していたのは「公共性」を持ちかつ関心を払うことができるということ ― がよくなければ、代表者の質も悪く、自ずと国政の質も悪くなる。これは議会制民主主義では注意すべきことであると言っています。
一方で、立候補者に対してはこう言っています。
ある政党が大きくなれば、各地域に立てる代表は、本人の質に関係なく、ただ政党の綱領を言うだけの中身のない人が増えてくる。
結果として、選挙民が、その質を比較検討できるような候補者が揃わなくなる。
これもまた議会制民主主義の陥穽であり、これは避けなければならないと言っています。
とはいえ本文章では、このような事態の回避については特に言及はしない事とします。なぜならそれは投票制度や選挙区制度の問題となり、この文章の趣旨からは外れるためです。
私が書いておきたいのは、上記のような問題を抱えながらも、兎にも角にも当選した少数派についての存在価値です。
少数派が、少数派だからそこ必要な理由
よく耳にする意見として、政権運営を担えない少数派は、多数派にならなければ存在意味がないのではないか、というのがあります。
これについて、J.S.ミルは、次のように言っています。
多数派の宿命は、その政治的・経済的・地域的なしがらみから、政策の質の低下は避けられない。つまり思い切ったことができないか、しようとしても、立案の過程で骨抜きにされた政策ができあがってしまうというものです。
一方、少数派は、自分達の意見を、意見のままであるが故に、鋭いまま保存しておくことが可能です。だからこそ、少数派は少数派として必要なのだと指摘しています。
なぜなら、議会(国会)で、議論が場が確保されているのであれば、少数派からの意見が、多数派の政策立案に対して純粋な批判を加えることができるからです。
そしてその批判は、政策のみならず、立案した人の思考・精神に対して、少なからず影響を与えるでしょうと。
だとすれば、少数派であればこそ、多数派を多少なりとも矯正できるというものです。
ちなみに、もし少数派が多数派に転ずれば、結局ははじめの宿命に戻って、質の落ちた政策しか立案できない立場にならざるを得えません。
選挙は、多数少数ではなく「自分の信条」を基準とすべき
ということは、選挙にあって選挙民は、自身が多数派政党の成員でないのであれば、自分の信条に照らして合致すれば、少数派であっても投票した方がいいのであって、
いま多数派だからとか、少数派だからとか、そういう判断基準を持ち込んではいけない、ということになります。
もちろん、日本における少数派は、これまでのところ共産党や社会党といった、過去に崩壊した理想、あるいは薄っぺらな理想を金科玉条にしている人たちでありますから、
それを実現したら甚だ困る、という少数派ではあります。
が、上記のような薄っぺらな理想を振りかざす人たちとは、一線を画している少数派政治家もいます。無所属もいるかもしれません。
そういう人たちが主張していることに耳を傾けて、自分の信条がより近いのであれば、迷わずその人に投票すればよいのではないでしょうか。
議会制民主主義の根幹は理解しておいた方がいい
今回の選挙は、恐らく自民党が過半数を占めると思います。民主党があまりに酷かった反動ですが、
それはあくまで反動であり、民主党が政権をとるきっかけは、自民党政治のどん詰まりであったことは動かしようのない事実です。
そんな多数派の動向が、確かに日本の政治を左右することに変わりはありませんが、少数派が死滅したら、多数者の専制を矯正する手段のひとつを失う、ということを意味します。
ゆえに、少数派の存在もしっかり考えておく必要があるのではないか。
そんなことを思う、選挙前夜でした。