若者が読書をしないのは、読書の価値が社会的に位置づけられていないから

いったい、自分のまわりを見回したときに、優れたる人とはどういう人が多いでしょうか。

それは、経験も知識も豊富で、論理的にも情理的にもバランスが取れている人でありましょう。

で、このような人は、生まれながらにそういった人だったのでしょうか?

そうではありません。

人生の荒波のなかで揉まれたのです。

このような人を「人格者」と呼ぶなら、人格者は、荒波から養分を得て、自分を鍛えたのです。

荒波から養分を得るとはどういうことでしょうか?

それは、「喜怒哀楽」を十二分に体験し、そしてそこで味わったことを己の人格に内に取り込んでいき、その取り出しを自由にできる人のことだといえましょう。

ちなみに「喜怒哀楽」と表現しましたが、4つだけであるはずはありません。

この言葉が表しているのは、こちらのページに説明のあるような、人間として体験する辛くて苦しいこともすべて含まれます。

「モノを読む」とは「知る」ことだ。「知る」とは「疑似経験知」を増やすことだ。

では、「喜怒哀楽」の経験値が少ない人は、人格者になれないのでしょうか。

そのとおりです。確実にそうだと言えます。

人生経験の質と量は、いわばスポーツに例えると「練習」に近いと思います。

その「練習量」が圧倒的に不足しているのに、自分を鍛えることなど出来はしません。

が、そうなるとこの世の中は、やせ細った人ばかりになります。

事実、現代社会のスマホ中毒者の群れを見るとそうなのですが、ここから唯一脱却する方法があります。

それが、直接の経験値を積めないなら、間接の経験値を積む、つまりは読書を通じて疑似体験をする。

ということです。

これが読書の価値以外にはないでしょう。

もちろん、この見方もまた、「読書の価値」を「人格陶冶」という角度から光を当てたものにすぎませんが、少なくとも哲学者や思想家を目指しているのではないかぎり、最大公約数的には「これが読書の価値」と言えましょう。

「疑似経験知」×「実際の経験値」がその人を高めていく

では、読書量を増やせば疑似体験が増えて、人格が鍛えられていくのでしょうか?

そうとは言えません。人生38年も過ごしていると、読書をいかにしていても、実際の経験値の不足から、イマイチな人格な人とはいくらでも出会います。

よって、次のように言えると思います。

「人格」=「読書量(疑似経験値)」×「実体験の経験値」

どちらかが大きすぎても駄目だと思います。

試しに、全然読書をしない人はどうなるかというと、こうなります。

「人格」= 1 × 「実体験の経験値」

ということは、この人は、自分の狭い社交範囲の経験からのみ構築された人ということになります。

そして「朱に交われば赤くなる」「類は友を呼ぶ」の諺のとおり、普段生活をしていると近くにいるのは、自分によく似た人たち、ということになるので、「実体験の経験値」はある一定の偏りを持ちます。

以上のような次第で、「読書による擬似経験値」と「実際の経験値」は、掛け算になって、それぞれ「テコの原理」のように「人格」に効いてくると思います。

ちなみにこの式からすると、社会人になったら読書を止めていいのではなく、むしろ社会人こそ読書をすべきだと思います。

なぜなら、会社という閉鎖空間で、「実体験の経験値」の増加率が急激に上昇するため、下記の状態に陥る可能性が高まるためです。

「人格」= 1 × 「実体験の経験値」

ゆえに、優れたる人を目指すのであれば、読書は欠かせないものでしょう。

そして読書の価値は、社会的にはこのような位置づけだと、私は思います。

最後に、「若者の読書離れ」はなにを招くかというと、社会に出てから以降の圧倒的な二極化およびその固定化で、

「人を使う側」と「人に使われる側」のうち、誰でもはじめ新人の頃は「人に使われる側」から出発しますが、そこでどれだけ経験値を蓄えても、「使う側」にほぼなれないか、なったとしてもすぐに資格なしとして「使われる側」に転落することでしょう。

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