記憶の糸

先日のブログを書いたときに同時に思い巡らしたことを書いてみたいと思います。それは、古典の漫画化についてです。

数学や物理に限らず、最近は解説本の漫画が増えてきていますね。「聖書」や「論語」といった古典まで漫画になっているようです。

私は古典の漫画化は反対です。なぜならそれはせっかくの古典の効用を殺すように思えてならないからです。

そもそも「古典」は、人生経験が重なって行くと共に、書かれている文字から受け取る意味が異なり、ある時は戒めてくれ、またある時は励ましてくれる、そういうことがあるもんだぁ、ということを教えてくれるが故に古典だと考えています。

少しまじめに書けば、古典は、

  • 事実とはそういう多重性を有するものであることを教えてくれる。
  • 事実の多重性による解釈の多様性を、純粋な形で取り出せる題材を提供してくれる。
  • 多重性は、自分と他人との間のみならず、昔の自分と今の自分の間にも当てはまる。
  • ある事に対するある時の解釈は、本人にとって一切であり重要であるにも関わらず、ひとつの解釈にすぎないことを教えてくれる。
  • 真実とはそれら一切を包含して真実であるということを教えてくれる。

ゆえに、古典に深く入っていくと、事実に対してあらゆることを引き受けていく「自分」の形成が要請されてくるように思えてきます。

それは、「過去の自分」・「自分の気に入らない自分」・「自分と違う他者」を、無視するでもなく切り捨てるでもなく、自身の血肉と化して行く思想的態度といえます。

そこまで導いてくれるのが古典の効用であり、ひとえに文字でのみ書かれていることに因っていると思っています。

文字は、そこから個人の経験を呼び起こす。個々人の経験から場面を想起させてくれる。故に、同じ自分であっても、同じ文字から違った考えを受け取ることになる。

絵は、そこから絵が設定した場面しか想起させてくれない。故に、書かれてあるとおりの解釈しか受け取りようがない。

したがって、古典の漫画化は、古典の効用を殺してしまうように思えてなりません。

漫画では、知識として確実にその内容を「知る」ことはできるでしょう。が、その内容から「学ぶ」ことにはつながりにくいと思えてならないのです。

というわけで、古典の領域における漫画化には反対しておきたいと思います。

※※※

ちなみに私の知る範囲で、こういう思想的態度の人は皆豊かな人でした。その豊かな人たちとは、私の知る範囲では次の人たちです。

・小林秀雄
・福田恆存
・ゲーテ

これらの人たちはその著作で、はっきりと自覚的に、古典のそういう効用を言っています。

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