記憶の糸_空海

私はここ2年くらい、仏教の周辺の勉強をしています。

それは、仕事をしていくうえで、他者に対して目配り気配りをしながら、自分自身に対しては、動かない心(不動心)が必要だと思い、そのあたりを書物で探っていくと、仏教に行き着いてしまった、というのが仏教を勉強している理由です。

で、そのなかで、仏教には、「顕教」と「密教」というものが出てきます。

Wikipedia顕教
Wikipedia密教

この2つをざっくり説明すると、顕教とは誰でも分かるように言葉だけで説明してある教え方で、密教というのは、言葉に加えて「言葉だけでは伝えきれないもの」を教えて悟りに導く、というものです。

もちろん、私は密教阿闍梨ではありませんので、密教のその内容を知ることはできません。

が、言葉だけでは伝えきれないものは、恐らく「体験」ではないかと思われます。

なぜならば、私もいま39歳ですが、日々、この「体験」から得られた経験値と、「読書」で得られた知識をバランスさせることで、初めていろんなことへの理解が腹落ちすることが多いからです。

自分の経験なしには、物事の理解は、心の底からできない。

これは実は、大学時代に、ニーチェの本の中で見つけていた言葉で、ずっと確信を持てずに来ましたが、

結局、書物を含めてあらゆる物事からは、誰にしても、自分がすでに知っていること以上を聴き出すことは出来ない相談だ。体験から近づいて行く道をもちあわせていないような事柄には、誰も聞く耳を持たない。

それがこのほど、日本が誇る天才・空海が、言葉で説明を尽くすだけのあり方は「浅い」と言い切っていることを見つけましたので、

「経験と知識をバランスさせることで真の理解に達する」ということは確信に変わりました。

経験し続けると数年後に理解が深まることが多いこと

ちなみに、「経験と知識をバランスさせて初めて理解できる」ことはどんなことがあるのかと思ってみましたが、パッと思いつくところを挙げてみるとこんな感じでしょうか。

対人関係の判断において

・知識としては、「人は外見で判断できない」という意見があったり、聖書なんかには「外見は心の鏡」といった言葉があるけど、

・経験を積めば、人は外見で判断できることが心底理解できる。表情の有無や言葉遣いで、その人の内面がおよそ分かることに気付かされる。(39歳にもなれば)

「身だしなみが必要」ということの根底の意味(知識として「他者への配慮」)を知れば、

・マナーが悪い人や歩きスマホをしている人は、男女問わず、似たようなダサい顔をしているのは、他者への配慮が欠けているからそういう顔になっているということが心底納得できる。

・顔が幼いままの人であれば、苦労していないか、苦労すべきことと心で向き合わずに蓋をしてきたり、浅はかな割り切りを繰り返してきた幼稚な精神構造なのであろう人種であることが、実際に何人もの人と会話する経験が蓄積すると分かってくる。リンカーンが「40歳になったら自分の顔に責任を持て」といったことが心底理解できる。

・「外見で判断できない」のは、せいぜいスキル面であって、内面は如実に外見を表している。

仕事において

・飲み会の幹事や、嫌な上司など、付き合い上の我慢を腹をくくってすることで、自分の対人スキルで思いもしなかった才能を発見することがある

・仕事上の「それ、自分がやるんですか?」という言葉を飲み込んで辛抱してやり続けると、雑務をこなす速度が劇的に上がり、かつ、周囲の人からの信頼も得ることになって、数年後、良いことしかない。そして辛抱すらしなくなって、率先してできるようになる。

・マネジメントは方法論を知っているだけでは人はついてこない。自分の自己開示がないと、他者から開示されることはまずない。よって信頼されない。信頼されないとマネジメントは殆ど機能しないことを心底理解できる。

家庭において

知識としては、「家事の役割分担」と至るところに書かれているが、

・事務的な役割分担をしても、相手が忙しいときに自分が楽な状態で何もしなければ、相手から反感を買う

・決められた役割分担を超えて、相手が忙しいときに自分も黙って手伝うことを繰り返していれば、家庭は全体として治まってくる

・家事や育児で、「やりたくないこと」をやり続けると、いつかそれが普通となり、ちょっとした面倒臭さに対して、心がネガティブに振れることが無くなってくる。その家事・育児スキルが上がって喜ばしくなってくる。

・こうした経験を経ると、はじめて、結婚式のときに紋切型に誓う、「苦楽をともに助け合って人生を生きていく」という言葉が、誓わなければならぬほど難しいことであることが思い知らされる。

友、夫婦について

・どれだけ仲のよかった友人も、容易に仲が悪くなる。

・どれだけ仲のよかった同僚も、友人にはならない。

・どれだけ仲のよかった夫婦も、容易に仲が悪くなる。

・こんなことの経験値が増えてくると、

荘子の「君子の交わり淡きこと水のごとし、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という言葉を「真なり」と理解できるし、
 
ベートーヴェン第九の詩(歓喜の歌、シラー作)の「ひとりの友を真の友にするとい難事や、心優しき妻を得た者は自身の歓喜の声をあげよ。地球上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ」という詩が、これがどれだけ難しいことであるかということを「真なり」と理解することができます。

※※※

などなど、挙げれば切りがないと思いますが、皆様もネットや書籍で見かけた知識があると思います。

「そんなことは別の切り口で考えると、ほら、無意味になると言えるわけだから、気にしなくてもいいよ」という「逃げの知識」を。

そして「そんなことしなくてもいいよ」と書いているのは、合理的・ロジカルシンキング万能的な人たちが多いと思います。

私が思うに、基本的に、合理的、ロジカルシンキング万能的な人たちは、言葉で合理的に説明できるものしか理解しようとしなかったり、合理的に別の説明ができればそれでOKと見るような、「人間のあり方として断片的な考え方を一般論へ敷衍する人たち」であると思います。

だから人として、すごく偏りがある人が多いという印象です。

コンサルタント - ロジカル万能は 人間としての出来損ない感がある

で、そう考えると、「ロジカルシンキング万能派」の代表格は、ビジネスの現場では現コンサルタントとか、元コンサルタントなのですが、

私が、スタートアップ企業に在籍していたときに、経営層にいたマッキンゼーやゴールドマン・サックスなどの人たちはその典型でした。

人間のバランス感覚が著しく欠如して、出来損ないという言葉すらふさわしいのではないかと思ったくらいです。

とにかく、論理的正しさだけがあって、相手の気持ちを汲めません。相手の反感を買ってばかりでした。

コンサルティングが本業だったときは、仕事の構造上、上下関係でいえば、クライアントが「上」でコンサルタントは「下」だったので、抜群の論理的正しさという部品だけでも上手く機能していたのかもしれません。

が、そうでなく自分たちが推進する立場になったとき、営業の人たちから聞いた話だと、クライアントとの打ち合わせの場に同席させると、一方的に解決策を示してオワリ、という場になったり、これは私も居合わせたことがありますが、一方的に、質問をしまくる、という場になったりで、

それはそれで、論理的には正しいアプローチなのかもしれませんが、関係性(信頼性)が出来ていないところでそれをされても、相手に反感を買うだけだし、そういう文脈でない打ち合わせの場のときに、そんなことをされると「場違い感」しかなくて、信頼の低下を招くのみです。

ちなみに、組織のマネジメントでも、MBAの教科書的なマネジメントはするのですが、そこに血が通っていないから、社員からは、ほとんど納得を勝ち得ていないし、結果慕われていないし、社員の負荷を劇的に高めるようなことを平然と判断してしまって恨みを買っていました。

私は、それを見て、なかば呆れ、なかば「この人種が率いる会社は、未来で競合になり得ない」と安心して、1年半で退職しました。

私の彼らに対する印象を言葉にすると、

「論理解は出せるが、現実解を出せない人たち」でした。

やはりロジカルシンキングで理解できることは「浅い」のだろう

もともと、上記の、私のスタートアップ企業での経験のほうが、空海との出会いよりも先にあったのですが、

そのときに感じていた「経験と知識のバランスに欠けた人たち」に対する印象が、間違っていなかったことを確信しました。

ちなみに、空海が言っていることは、こんな感じです。

【訳者要約文】もし真言の形態的な相(字相)や意味内容(字義)などに基づいて、詳しく解釈するならば、計り知れないほどの人・法などの意味がある。これらについては、どんなに長い時間をかけても、論じ尽くすことは難しい。もし疑問がある者は、密教の適切な修行を経た上で、さらに(阿闍梨に)問い正してほしい。

つまりは、文字に書かれてあることだけに依っていると、それ(仏の教え)を理解することは無限の時間がかかる=できない。もし理解したければ、「密教の適切な修行を経た」上で質問してね。と言っているのですが、

これは冒頭のニーチェの言葉の抜粋と同じことを言っています。

「結局、書物を含めてあらゆる物事からは、誰にしても、自分がすでに知っていること以上を聴き出すことは出来ない相談だ。体験から近づいて行く道をもちあわせていないような事柄には、誰も聞く耳を持たない。」

少し毛色が変わりますが、荘子も同じようなことを言っています。

記憶の糸 - 過去記事読書に対する戒め ※荘子『外篇』より

他、空海はこうも言っています。

顕教と密教の相違は、教えを受ける側の人にあるのであって、経文中の声字に(顕教と密教の)相違があるわけではない。しかしながら、それでもなお、顕教のなかの秘教、秘教のなかの最も極秘の教えというように、浅い教えから深い教えへと、幾重にも教えが重なっているのである。

この深い教えに行くには、顕教・密教で違いはなく、本来的には幾重にも教えが重なっているのみである、と書いてありますが、

「浅い教え」から出発して「深い教え」に至るのであり、書かれてある文字(知識)を一義的に理解するやり方は、1つ目の引用にあるように、無限の時間を要するのだから、「知識」とその組み合わせだけであるロジカルシンキングは、やはり「浅い」と結論づけるのが真であろうと思います。

ためしに、自分の周囲にいる、ロジカルシンキング寄りの人たちを思い起こしてみていただきたいですが、大多数は「人として浅い」という印象が当てはまることでありましょう。

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