昨今のビジネス書ブーム(?)で読書の仕方についてイロイロと取り上げられいますが、
それはやっぱり読書でしかない、ということを古代中国の荘子は戒めています。
肝に銘じておきたいですね。。。
斉の桓公、書斎にて読書す。
車大工、声をかける。
「公の読むところは何の言たりや?」
「聖人の言なり。」
「其の聖人、今も健在なりや?」
「すでに死せり。」
「然らば公の読むところのもの、聖人の残りカスのみなるかな。」
「えらいことを言うものなり。申し開きできなければ殺す。」
「我の言、我の長年の経験に拠りけり。
たとえば車の軸受けをけずるとき、大きすぎても、小さすぎても、これ使い物にならず。
この妙、口に言うことは不可といえども、偶然に拠ることなし。
我が子に諭すも、その妙は伝わらず。
齢70になるも、我いまだ軸受けをけずりたり。
思うに、其の聖人もまた、その妙は表せずこの世を去りけり。
ゆえに、公の読むところのもの、古人の残りカスと言えり。」
荘園『外篇』