たまたま、京都に行く機会がありましたので、かねてから立体曼荼羅を見たいと思っていたこともあり、真言宗の総本山である東寺に行ってきました。
で、このクラスのお寺には久々に行ったのですが、その荘厳さや壮大さをやや感動しました。
そして、仏教って、すごいなぁ、と思いました。
釈迦や、明王や、菩薩を配置して、この世の理を体系立てて、あるべき姿を追求する。
そこから、このような建築物も出てくれば、政治制度をも生み出してきた・・・
そんなことを思っていたら、突然に、翻って神道ってどうなの?と思ってしまいました。
神社以外に何もない気がして、やや寒々しい思いをしたのですが、ただ厳然と神社は存在するし、日本的なものは神道抜きには語れない、と思ったので、ちょっと今ある知識だけで神道のことを考えてみました。
目次
神道の特徴は「神社」「祭り」のみ?
私の40年の人生のなかで、神道の象徴となるような事柄を挙げてグルーピングしていくと、
「神社」「お祭り」くらいしか行き着きませんでした。
そして、「神社」は「穢れ(けがれ)を忌み嫌う」こと。
「お祭り」は、四季豊穣の「祈り」や「感謝」ということもありますが、どちらかというと民の「情熱の吐出口」という印象でしょうか。
この2つ以外には、これといったものに連想&辿り着きませんでした。
神道には「清潔」と「汚い」という「気分の次元」しかない
そして思ったのは、この「神社:穢れを嫌う」と「祭り:情熱の吐出」の2つというのは、気分の次元に留まることだなぁと。
「好き」「嫌い」というレベルの話です。
これって、現代の日本における思想的態度に通じるものがあると思いました。
2022年の直近のことで言えば、ネット上で、コロナが流行したらゼロを目指したり(穢れを忌み嫌う)、不倫があったら叩きまくったり(忌み嫌う×不満の吐け口)と、なんとなくそんな気がします。
一方で、仏教はと言えば、そういう「気分による行動」を「煩悩」という次元に位置づけて、そこから悟りに向かって歩んでいくという階層のなかに位置づけられています。
だから、「穢いことを忌み嫌う」という「気分の次元」も、仏教でいえば修行の一要素として肯定されつつ、逆に、「好き」とか「清潔」ですら、より高位のあり方からは批判されているのです。
そこに「好き」「嫌い」も、「穢い」「キレイ」も、「あるがままを認める」という仏教の思想的態度の軸があります。
一方で、神道は、「ある次元に位置づける」、というような構造を持っていません。
すべてが神(八百万の神)になるからです。
だから神道上では、「穢れ」を除いては、諸々の価値観が平面に横並んでいます。
だから思想的に、その平面から立ち上がることができないのではないか。
つまりは、好き・嫌いの次元で文句を言い合っていて果しがなく、その「好き」「嫌い」を止揚する「理(ことわり)」を探そうともしないし、「新たな状態」を思いもしないし、辿り着こうともしない。
そういえば、これまた日本の思想的態度で、原発や戦争も、「必要賛成」・「危ない反対」の同じ平面で延々と議論をして、両方を止揚するする形でいかにあるべきか、という議論は少ないように思います。
そして最後に辿り着くのは、現状維持(何も変わらない)か、その人その人の考え方ですね、といって、結局はやっぱり何も変わらない地点に辿り着くように思います。
この「その人その人の考え方ですね」というまとめ方は、八百万の神の横並び状態と本当に同じだと思います。
秩序には価値の優劣が必要。気分では政治はできない。
だから神道から社会は産まれない。村的な狭い社会は産まれても、国家的な社会を覆うような広がりはない。
なぜなら社会は秩序を必要とするが、神道はそのなかに秩序を見出すことはできないからです。
せいぜいは、天照大御神とその他の神(一君万民に通ずる)、というような構造くらいしか思えない。
一方で、仏教には、価値の秩序が存在します。
だから、日本史のなかでも大きな「社会」変革を成した人は、仏教への造詣が深い人が多いのは無関係ではないと思い出したのです。
その人たちというのは、私の知る範囲では以下の方々です。
彼らが秩序ある社会を志向し構築をできたのは、仏教的な素養があったからではないかと思います。
この構造って、アポロ的・デュオニュソス的の二元論と同じ構造だ。。。
ちなみに、この「気分」と「秩序」の構造は、「情理」と「合理」、「デュオニュソス的」と「アポロ的」(ニーチェ)と同じ構造のように思えました。
つまりは、双方が健全な対立関係にあるとき、人間の精神は健全になるのであって、どちらかにバランスが崩れると、人間の精神は停滞します。
「情理」に偏ればすべての判断が情緒的となり、
「合理」に偏ればすべての判断が屁理屈っぽくなります。
「情理」一本槍でいこうとすると、人の命が奪われるいかなる戦争もダメ、となるし、
「合理」一本槍でいこうとすると、人の命が奪われるのがいけないから、侵略された側は降伏しろ、というわけです。
記憶の糸思考とは"思った所から考える"こと ※ロシアのウクライナ侵攻により明らかになった評論家の知性
その2つの間でバランスを取るのは、人間です。
ただその際に、より上位の概念や、上位の価値を置かずには、その2つをバランスさせるのは難しい。
そのより上位の概念や、上位の価値は、西洋であれば「国家の存立」となるであろうし、「最大多数の幸せ」となるかもしれない。
※もっとも、その先には、神によって承認され個人、その個人を護る存在のとしての国家、というように価値は階層を持って、もっと立体的な構造をしていると思います。
そして、「国家の存立」や「最大多数の幸せ」がなければ「個人の幸せ」は存在し得ないと見るのであれば、
「国家の存立」や「最大多数の幸せ」のために、「個人の幸せ」「個人の命」を捧げるという考え方は、ちっともおかしくない。情理と合理のバランスが取れていると思います。
日本人にとっての「自分たちの原理」はいつできることやら
ちなみに、日本には仏教のほかに「武士道」という原理があったと思います。
この仏教や武士道やといった「原理」になり得るものを戦後に無くしてしまったがゆえに、
現代に至っては、アメリカ的な主義(経済原理)や、ユートピア的な原理主義(生命至上主義)といった考え方を拠り所にするのではないかと思います。
見苦しいまでに、どんなことにも経済原理を持ちこもうとしたり(大前研一氏(コンサルタント)や、柳井正氏(UNIQLO社長)、文化施設はカネを産まないからやめようとした橋下徹氏(元大阪市長)など)、
浅はかな生命至上主義で、ロシアから侵略を受けているウクライナに「降伏しろ」と言ってみたり(橋下徹氏、本田圭佑氏など)するのではないかと思われます。
ならば「我々が編み出した原理」を、いかにして持つか、ということが、日本人の課題であるような気もしますが、
それは本当は、水戸学という学問にまとめられていたはずが、
アメリカが、日本を占領したときに、「永遠に日本人に自信を取り戻させない」ために、焚書でこの世から抹殺したのです。
結果、日本人の精神をまとめあげるためには、これから膨大な年月がかかるかもしれないし、もうそれをやろうという人も機会もないかもしれないとも思われるわけで、
しかも、インターネットのように有象無象の意見が飛び交うようになっては、ますますそういうこともやりづらくなることでしょう。
そんなことを、仏教に触れて思ったのでした。