社会制度を議論するとき、この国の知性に欠落しているのは、「社会の側から個人の行為を位置づける」という物の見方である。
この国のこの手(社会制度に関わるような)の議論は、いつも個人から出発する。
個人から出発するから、結局は、エゴの衝突・均衡の議論にしかならない。
だから不毛な議論にしかならないし、議論をしても建設的な議論とならず、事態は何も前進しない。
個人から出発すれば、「人それぞれ」という結論にしかならないからだ。
ヘーゲルの弁証法的な言葉を借りれば、テーゼがあって、アンチテーゼがあって、それを止揚するジンテーゼに達することに議論の意味があるが、この国では議論してもジンテーゼに達することはない。
この国の議論の場は、テーゼとアンチテーゼを分離して、それぞれの範囲に留めればよいという、何の解決にもつながらないことをを無意味に言い合っている。
「社会」の側からの意見が変なら、社会と対になる「個人」の側からの意見も変と感じる感受性がない
結婚や子育てを、社会の側から位置付けようとすると、つまりは、「婚姻関係・子供がいた方が社会が安定する云々」、といった観点を入れようとすると、
そこに拒否反応を起こす人は多いでしょう。「個人」の観点がないからだ。
が、「社会」の反対は「個人」であり、「社会」からのみ出発する意見が何かおかしい、と思うなら、
「個人」から出発する意見も何かおかしいと思う感受性を、この国の大多数は欠いていると言わざるを得ない。
たとえば、結婚や子育ては、個人の経済的自由度を制限するのみで、その制限を受け入れるかどうかは個人の自由である。
その後の未来の日本のことなど、自分の生きている間におかしなことにならなければそれで良い。
といようなものが個人の側からの極端な意見だが、これに同調する人は多いはず。この意見にこそ違和感を感じなければならないのだが。
個人からのみ出発していいのは、それで何とかなる社会基盤を前提としている
個人が良ければそれでいいという考え方が成立するのは、個人が良くなるように頑張れば報いられる社会基盤を前提としている。
社会はバームクーヘン状に構成されている。
個人→家族→友人→知人→地域→会社→・・・→国家と、人の輪が広がって形成されている。
この輪の絶妙な均衡が、社会基盤なるものを構成している。
だから、この輪のどこかを断ち切って、そこから内側のことばかり志向していれば、当然、その外側は崩れだす。
その外側が崩れ出すことは、バームクーヘンの外側が崩れていくことだから、必然、その内側が自体が拠って立つ足元(外側)が崩れ出すことに他ならない。
だから、個人の側を優先する考え方は、いずれはその社会基盤が崩れ、意味のない考え方になっていくことでしょう。