成熟することを経験しなかった学者バカ 〜 吉田松陰

吉田松陰という人は、幕末のなかでは必ず出てくる名前の一人ですが、

今年に入って、『徳川慶喜』を読んだりするなかで、一体どんな思想を持っていたのだろうと興味が湧きました。

この人は、長州藩の教育家という立ち位置ですが、安政の大獄で処刑されてしまいます。

で、その私塾である松下村塾から、明治維新で活躍した人を多く輩出した、ということで有名な人です。

が、吉田松陰が死んだのは29歳です。つまりはたったの29年しか生きていません。

そして、驚いたのが松下村塾が、吉田松陰の下で運営されていたのは2年くらいです。

そこで私はふと思うのです。

たった2年で、人をそんなに教化できるものであろうか?と。

というわけで、そのあたりも明らかにすべく、山岡荘八氏の『吉田松陰』を読むことにしました。

前半生:学問して世の中が分かったと錯覚する幼い精神

吉田松陰は、20代前半くらいまでは、世の中を知らず、ただ知った学問がこの世のすべて、と思うような人でした。

現代でいうと、ちょっと中学・高校で、成績が優秀だったものだから、それで世の中のことがわかった、という一面的な知識で思い上がる愚か者です。

頭がよかったので、藩校の教鞭なんかをとったりもしましたが、「一面的な知識」しか持っていないことを藩主に見抜かれたからこそ、藩の費用で旅に出されました。

藩側からすると、その旅で、いわゆる「読書と実経験のバランス」を取りに行って、人物として花開いてほしいという期待があったのだと思います。

つまりは藩からは、その才能は認められていたということです。

読書とバランスするような吉田松陰にとっての最大の経験とは?

ただ、ここでの旅というのも、どちらかというと、自分たちと似たような人ばかりとの親交のなかで、日本中を歩き回った感があり、

まったくの異文化のなかでの、清(理屈)濁(現実)併せ呑む素地をつくる「旅」というようなものではなかったと思われます。

はじめ、九州を歩いて、そのあと江戸から東北にかけてまわりましたが、そこでもこれといった精神的な収穫などなかったように見受けられます。

なぜならば、本の中で、そこに関わる出来事で「これは」という記述が皆無だったからです。

そして、唯一あると思われるのが、旅を終えた後の話にはなりますが、

江戸に戻ってきてから、ペリーの黒船来航のおり、

西洋の地で学びを得ようと決心して、黒船に乗り込んで嘆願したら連れて行ってくれるのではないかという希望のもと、実際に、小船を黒船につけて乗り込みました。

ただ、折しも、アメリカとしても幕府との条約調印(日米和親条約)が成功するか否かのタイミングで、さすがに黙って日本人を船に乗せてアメリカに連れていけないという事情もあったりで、これは失敗に終わるのですが、

このとき、黒船に寄せた小船に荷物(計画や、関係者とのやり取りの手紙などが入っている)を置いたまま、これが流されてしまい、

幕府にそんなことが全部ばれると、お世話になった人も捕まるし、ということで、一緒にいた金子重之輔という人は、切腹をしようと言いだすほどの状況だったのですが、

「ここで生きるも死ぬもまた天命」として自ら自首して、この状況に体当たりしていきました。

この経験は、誰にも成し得ない、とても巨大な修羅場だったと思います。

私が本を読んだ限り、これが吉田松陰の人生のなかで、経験らしい経験だと思います。

ちなみに、そういう「死に直面」する経験があると「人は開眼する」とはよく言いますが、

たとえば、ロシアのドストエフスキーも、銃殺刑の直前に恩赦で開放されたのですが、彼の有名作(『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『地下室の手記』『悪霊』等)は、ほとんどがこの後の作品です。

死を目前にしてそこに向かっていく状況に、なにか得るところが大いにあるのではないかと思います。

というわけで、「死に直面」する経験は相当に大きなものだと思うのです。

そんな経験を精神的に乗り越えたからこそ、教育者としての開眼があって、長州藩に戻されて獄に入っていながらも、獄囚から「先生」呼ばれるようになってしまったり、その後の松下村塾で、身分を問わず教えていく、というところに非凡さを発揮したと思われます。

※ちなみに一緒にいた 金子重之輔という人は、だんだん弱って、長州の獄にいるあいだに死んでしまいました。

後半生:倒幕(暴力革命)に収斂された残念な精神

が、このあと、幕府が日米修好通商条約の締結後、朝廷をないがしろにしたような対応をしたことに対して激昂してから、

「倒幕」というようなことを平然と言っていたあたりで、私は、吉田松陰は、結局は学問で現実を裁く頭脳しか持てなかったのだと残念に思いました。

ほら、よくいるではありませんか。学問的・理論的に正しいことを掲げて現実を裁く人。

現代でいえば、スウェーデンの環境活動家のグレタさんなんかが頭に浮かびましたが、まぁ、吉田松陰はその類と直観したわけです。

そして、本当に日本のことを思うというところから物事を考えていた人の考え方は ― 徳川慶喜孝明天皇あたりがそうだと思うのですが、

記憶の糸対立する意見は 1つ上の次元を構想しないと決着しない 〜徳川慶喜より〜

煎じ詰めると、いま日本国内で武力衝突を起こすと、欧米列強に付け入られるスキを与える。だから、そのスキを作らず、しかし、国内政治を、幕府政治から、合議制の民主的な政治に変革していこう、ということで苦心惨憺していたのに比べると、

「倒幕」などといって激昂している吉田松陰など、ほとんどそのあたりにいる志士と同程度の小物にしか見えません。

「大和魂」とか言うなら ― その「大和」を本気で考えるなら、いかにしてこの動乱の世を「大和」という思想に基づいて導くか、その道標を打ち立てるくらいのことに取り組んでいれば、私は吉田松陰という人を、また違った捉え方ができたと思います。

しかもその頃以降、長州が薩摩と一緒にやったことは、「倒幕」を掲げて、テロ・テロ・テロ、のオンパレードで、

人の首を切って、武力を自前で持たない公家の家に放り込んでおどしてみたり、

天皇の密勅とかいって、自分たちの都合のいい偽勅書を発行しようとしたりと、

これが、「天」とか「自然の理」とか「大和魂」を問うた人の門下生がやらかしていることを見ると、どう考えても、この人は別に、日本人としてどうあるべきか、みたいなことを教えていたわけでもなく

しかも、水戸学のように、日本の国体を明らかにする、といった風でもなく、

安政の大獄で江戸に護送されるときも、「孟子の教え(至誠天に通ず)が通じるかどうか試してみる」というようなセリフ描かれてありましたが、

学問にかぶれたまんま、学問もまた現実を改善する一手段に過ぎないという認識の域に達しなかったという印象しかありません。

そしてそれは、一般に世に云う「バランス感覚のない人」「究めなかった人」「専門バカ」とか「学者バカ」とか、そういう人たちなのです。

※ちなみに、江戸の護送されても、まだ処刑級の罪ではなかったのに、吉田松陰自らが、老中暗殺計画のことや、聞かれてもいないことを自ら話したり、滔々と幕府批判を展開して、処刑になったようです。

吉田松陰の存在が「暴力革命」に通じていたとするなら、その思想・教育は二流と言わざるを得ない

だからこの人の、松下村塾での若輩に対する接し方が素晴らしかった、ということは言えても、

思想が素晴らしいわけでもなんでもなかったと思います。

しかも、素晴らしいと言いながらも、結局は教え子を「暴力革命」の方向に走らせたのだとすると、

人名の尊さや、「暴力革命」は天皇の赤子同士を傷つける行為であり国体に反する、というような根源的な思想の観点で物事を教えてはいないと思われます。

というより、突き詰めたように見えた吉田松陰自身が、結局はそこまで学問で掘れていなかったのかもしれません。

そういえばこの人は、仏教は勉強したのでしょうか。仏教を勉強すると、知識だけでは全然足らないということを密教・顕教の別で言い切っているので、ひょっとしたらしてないかもしれません。

記憶の糸馬鹿には 仏も黙る

吉田松陰のことを、「明治維新における精神的指導者」といった表現が散見されますが、良い意味での「精神的指導」はイチミリもしていないでしょう。

「暴力革命」へ教え子を導くとか、現実とのバランス感覚を醸成できなかった、原理主義の馬鹿者です。

だから吉田松陰という人は、現代の国難の時機にあって、全然読む価値のない人だと思います。

原理主義は、基本的に急進的な変革を求め、結果的には社会に混乱をもたらすだけです。漸進的に変革されていく方が、社会に負担も少なく良いに決まっています。

原理主義は、下手をしたら現状に対する破壊主義になるだけです。長州が明治維新直前にやったことは破壊主義そのままです。「倒幕」のその後のことを考えていた節はゼロです。

吉田松陰の松下村塾が、明治維新の偉人を多く排出してる、というのは、結果的に、長州が権力闘争に勝って 明治政府の重要ポストを占めただけの話であって、

教育が素晴らしかったから偉人を輩出したわけではないでしょう。

権力闘争に勝った側が、同窓会で、自分たちの先生といえば吉田松陰だった、だから吉田松陰の名前が大きく取り上げられた、

くらいのレベルにしか見えません。日本の歴史に名を刻む価値の無い人だと思われます。

第一、門下生が吉田松陰のどのような教えの元、巣立っていったのか、という因果関係が全然見当たりません。この本ではその部分が省略されたのか?いや、そうではなく、無いから無いのだと思います。

今になって幕末の歴史は、薩長に塗られていることに気づく。

私は、小学校の頃の中学受験以来、40歳になってはじめて幕末の書物をいろいろと読んでいますが、

薩摩と長州が、自分たちを正当化するために、関連するものを美化している傾向が非常に強いことを感じています。

明治元年以降の、日本の軍隊の整備や、インフラ的な整備に関しては、幕府がすでにその路線を引いていて、明治以降は、薩長がその路線に乗っただけの印象があるのですが、

それを全部自分たちの手柄であるかのように歴史書に残している感があります。

吉田松陰は、その延長での「関わった人への箔づけ」にしか見えません。

常識で考えてみて、

2年やそこらで、偉人を多数輩出するようなレベルにまで人を教育するのは無理というものです。

そもそも、そんなに多数の偉人が、局所的な場所から出るのも普通に考えて無い。それから明治政府の要職を占めた=別に偉人ではない。単に権力の座についただけ。

権力の座についたもの同士が、自分たちの箔付けのために利用できるものは何でも利用した。吉田松陰は、思想の方面で利用した。だって長州には「倒幕」以外に、目指すべき国家像などなかったのだから。

というわけで、
吉田松陰の生涯を追ってみて、この人をどう思ったかというと、「成熟」することを経験しなかった「学者バカ」だったと結論づけざるを得ないのでした。

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