対立する意見は 1つ上の次元を構想しないと決着しない 〜徳川慶喜より〜

見通しのつきにくい時代ということで、幕末も現在(2021年)も同じようなものだと思います。

この日本が、未来においても、元気な先進国であり続けることができるかどうかという瀬戸際だと思っています。

コロナ流行で、緊急事態における行政機関(政府・都道府県首長)の無能無策はより一層明らかになりました。

目の前の行き当たりばったりの対応はできるのです。が、中長期の視点に立った取り組みが何ひとつできない国家に成り果ててしまった、という印象です。まぁ、平成の時代からずっとそうだったと言えなくもないですが。

そういった観点で、こんなときに読んだ『徳川慶喜(全6巻)』山岡荘八)から気づいたことをまとめておこうと思います。

幕末における幕府と薩長の目線の違い。高度な目線と低俗な目線。

この目線の違いが一番の気づきでした。

後半(4巻~6巻)では、
マキャベリズムという言葉と、
「天皇のめざす大自然のあり方(千差万別の人間たちが、おのおののところを得て生きる)」
という言葉が対比的に、頻繁に出てきます。

マキャベリズムというのは地上の政治のことです。言うなれば、戦国時代がそれにあたりましょう。君主も平気で殺します。目的のためには手段を選ばない、というやつです。

大自然のあり方というのは、現実の政治よりももう一段以上高い次元の、調和の取れた あるべき姿の世界観です。

前半(1巻〜3巻)は、この「天皇の目指す大自然のあり方」に思い致すにあたって、徳川慶喜の成長フェーズで起こった出来事や、それに対して慶喜が何を考えていたかに素因数分解を施しているような内容です。

「勤皇」「水戸学」「朝廷」「幕府」という要素が、慶喜にどのように観じられていたかが、井伊直弼・安政の大獄・桜田門外ノ変彦根藩も勤皇第一)を対置してより良く理解を深めることができます。

そして後半(4巻〜6巻)では、薩長の「マキャベリズム(関ヶ原の復讐)」を、いかに「大自然のあり方」を崩さずに抑止してゆくかということに苦心する慶喜が描かれています。

なぜなら、幕府が「マキャベリズム」という同じ土俵に乗った瞬間、日本は欧米列強の侵入を許すことが明白だったからです。

慶喜は、「国内で大規模な武力闘争になったら日本が日本を保てなくなる」ということをハッキリと意識していました。

だから慶喜の行動は、「幕府 vs 薩長」の武力闘争回避という点で一貫しています。

なぜなら、国内で武力衝突を起こさないことこそ、「天皇の目指す大自然のあり方」であり、それを実践していくことが、「尊皇」「勤皇」に他ならないと確信していたからです。

薩長は関ヶ原の復讐という次元である。特に薩摩はクズレベル。

一方で、薩長は、関ヶ原の復讐のため、奪権のため、幕府を追い詰めるためなら手段は選ばない、というスタンスでした。

彼らにとっては、もはや「開国」とか「尊皇」とかは、全部二義的なのです。「倒幕」しか頭にないような動き方をします。特に薩摩は、やっていることは陰湿な権力闘争です。

幕府を挑発するために、江戸でも京都でも、強盗や放火、人斬り、そして、首を要人の家に投げ込んで脅す、といったことをしていました。

それに応酬すれば、幕府に言いがかりをつけて、逆賊の烙印を押そうとする。もうずっとこの挑発パターンを繰り返し、という印象です。

今で言えば、揚げ足取りで、政局闘争にあけくれる小物です。

ちなみに薩摩藩は、生麦事件も幕府への嫌がらせ、薩英戦争の賠償金も、幕府に押し付けました。一歩引いて見ると、「日本」という視点なんてなくて「私利私欲」しかなく、まじでクズです。

幕府としては、外国に介入の口実を与えないためにも早期に決着をつけなければならないと考えており、薩摩藩のことと言えど、「国際上の日本」という立場で見たときに賠償金を払わないままには放置できないというスタンスでした。

さすがに、徳川慶喜孝明天皇は、こういう次元で考えているのであり、外国介入を抑えて国を開くにはどうすべきか、という目線で動こうとしていました。

孝明天皇自らは、薩長の意図(自分たちの傀儡となる公家を要職に復帰させる)を抑えこんだりもしていました。

それもことごとく邪魔して、朝廷や幕府を、おなじ「地上の喧嘩」の次元に引き摺り下ろした首謀者は、

明治維新の三傑とか十傑なんて言われていますが、大久保利通岩倉具視らであったことも、この『徳川慶喜』を読んではじめて知りました。

岩倉具視は、たぶん孝明天皇を暗殺してる。おそらく坂本龍馬の暗殺も。

ちなみに幕末の、「幕府の存在」が日本の近代化を阻む存在で、薩長はその幕府を懲らしめようとする開明派というふうに小学校の教科書では教えられてきますが、

実際は、徳川慶喜が、一橋時代の将軍後見職のころから採っている政策によって、国力の充実度は増していたようです。

ゆえに、木戸孝允をして、「一橋慶喜の胆略は決して侮るべからず。実に東照宮(徳川家康)の再来の如し」と言わしめているわけですが、

だとすると、幕府は改革の道を軌道に乗せ始めていて、その成果が良い結果で誰の目にも見える形となっていたということです。

ただ、軌道に乗ったとしても、すでに慶喜には幕府を続ける構想はなかったと言えます。

アヘン戦争を横目に、「日本」を国際情勢に照らし合わせると、日本全土が一致団結(中央集権)して列強と伍してしかねば、列強に喰われる。

そのために天皇という、日本全国の意志を束ねることができる存在の下に、徳川氏もまた他藩と同じ存在に位置づけての「合議制」を目指さなければならない。

そこでは全国から優秀な人材が入れ代わり立ち代わり、その時々の「日本」の舵取りを担い、政治体制を固定させてしまわない「あり方」が望ましいという、熟慮を重ねた構想があったからです。

ゆえに、14代将軍・徳川家茂が薨去してから、徳川慶喜は、徳川宗家は継ぐが、将軍には就かず、しきりに全国の有力大名を京に集めての合議を開こうとしました。

実質的な「天皇の下での合議政体」を実現した形となります。

が、これを邪魔し続けるのは、薩摩と長州です。なぜなら、彼らは「自分たちが権力を握る」という私利私欲の達成が目的だったからです。

そしてその筆頭が、岩倉具視、大久保利通、そして才能も無いのに担がれた島津久光です。(後年、久光が大久保に騙されたと愚痴っています。)

そして何をしたかというと、勅命を偽造したり乱発して、「逆賊」を徳川氏に被せようとしたのです。

そして徳川慶喜の構想に理解を示されていた孝明天皇は、このあたりで暗殺疑惑つきの病死をされます。

この経緯を知るまでは、私は不敬ながら、孝明天皇は国際情勢を理解しようとしない暗愚な天皇という認識しかありませんでした。

大政奉還は 幕府が朝廷へ政治権力を返上しようとしても 薩長が「逆賊を着せて」幕府を潰そうとすることに対する 最後の選択肢

そしてこの動きは、徳川慶喜も当然察知しており、もうまとまらない、という判断の元、大政奉還を公式にしたと言えます。

そうすれば、「倒幕」という目的は公式に消えて、国際的にも国内的にも、正式に朝廷を頂点とした合議体の形が公式に整うというものです。

が、それでも、執拗に徳川氏の追い落としが続きます。

薩長は、徳川慶喜をこの合議体のなかに入れることはしませんでした。

幕府の改革はすでに軌道に乗り出していた。それは慶喜が構想し指示したものである。この慶喜を入れると、自分たちが権力を握ることができないと、著者である山岡荘八氏は云っています。

それは、木戸孝允がいっている「実に東照宮(徳川家康)の再来の如し」という言葉があれば、そのとおりだったのでありましょう。

日本全土を発展する方向に動かし得る男が、たんに権力闘争をしてきた小物どもの間に混じったら、小物たちは淘汰されていく。

それよりも、その「日本の発展」を自分たちの手柄にすり替えたほうがどれだけ都合がよいか。

ちなみに、坂本龍馬の作った「大政奉還」の草案は、当時の「賢君」と呼ばれた山内容堂に提出され、容堂経由で慶喜の手元に届けられていました。

坂本龍馬は、「日本」という枠組みで未来を見ていたと思います。大政奉還を聞いて、泣いて、徳川慶喜に感謝したとか。

そして、この直後に坂本龍馬は暗殺されています。

「権力奪取」という枠組みで未来を見ている人にとって、「日本」という枠組みで未来を見ていて、薩摩と長州をくっつけた立場にいる坂本龍馬は、必ず自分たちの「権力奪取」の邪魔になると見たのでしょう。

だから、坂本龍馬は、大久保利通・岩倉具視らに暗殺されたと見るのが自然です。

坂本龍馬は、地上の権力など眼中になかったと思います。ただそのための手段としての「倒幕」が、一時的に薩長と機を一にしてしまったがゆえに、なぜか、薩摩と長州と坂本龍馬という枠組みで語られるようになってしまったのでしょう。

徳川慶喜は統治者として権力交代をやり抜いた偉人

その後は、戊辰戦争なんかは、上記の徳川氏の扱いがあまりに残酷であるための義憤から出たものと言えます。

そして装備も、フランス式で整えた幕府軍は江戸城無血開城で解散していて、旧式の武器しか持たない東北諸藩に、薩摩は最新の銃で攻めるとか、誰でも勝てるような戦争だったと言えます。

そう思うと、私はずいぶん以前に、政府軍の大村益次郎のことを褒め称えるブログを投稿していて、薩長は先見の明があって、東北諸藩は眠りこけていた、という感じに認識していましたが、見直した方がいいかもしれないと思っています。

記憶の糸危機感は情報、行動力は自治から生まれ、その完遂には技術が必要

薩長が先見の明があって動いていった、というのは大嘘で、実態は、イギリスの日本介入の尖兵で、武器供与を受けていただけです。

そんな構造を、2021年の現在の情勢に例えると、現在のタリバン支配に戻る前のアフガン政権みたいなもんです。その国の支配を強めたい列強から武器供与を受けていただけです。

そんな外国の介入を許容しての統治の大混乱を、アフガン以外でも、イラクや、ベトナムなんかで見ていると、

いかに徳川慶喜が、外国勢力を介入させずに、1つの絶対権力を解体して、次の政府につなげることができたことが凄いことか、と思えます。そして、そのような人を指して、偉人と云うほかありません。

幕府がもし、薩長と同じ次元で真っ向対立していたら、イギリス(薩長)・フランス(幕府)の傀儡戦争になって、国土は荒れ果てていたことでしょう。

それを1つ上の次元の目線からの解決を構想した人がいたればこそ、解決に辿りついたとういことは、とても大きな学びだと思います。

そしてこのことは、私ごとで言えば、日々の仕事なんかで大事だと思っている、「目的の置き所の大切さと、その手段を目的と見間違わないこと」、ということにつながっていると感じました。

日々の仕事という小さなことですら、ある課題に対して、それを解決する手段で対立した時に、声の大きな人の「手段」が採用されるばかりで、結果的にうまく行かず、あとで「それ見たことか」といってお互いに憎しみ合っているのみです。

「手段」という次元と、1つ上の「目的」という次元とを合わせて、立体的に思考できなかったからです。

というわけで、この目線の高い・低いは、本当に意識していきたいと思った『徳川慶喜』でした。

感謝。

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