記憶の糸

最近、美術館に行くとよく思うことですが、

代表的な作品(宣伝されている作品)以外の作品が、どうでもいいようなものが多すぎると思います。

宣伝の絵以外のかなり多くが習作で占められていたような展覧会もあったように思います。(私の記憶が正しければ、少し前にやってた「レンブラント展」)

これは誇大広告といっても差し支えないと思います。

また超有名な作家の、ほとんど無名の作品を、作家の名前のみで宣伝するのも如何なものかと思います。

なぜなら、作品の有名・無名の線引きを、その芸術作品がどれだけ多くの人を惹きつけるか、という一応の判断軸を持ち出すなら、人を惹きつけない作品を、その作家の名前によってさも価値があると想起させて、集客を図っているからです。

これを私は、インチキ商法と同じ構図だと思うのです。

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そしてまた、入場者も多くの人が、解説用のイヤフォンに耳を傾け、解説板を読むために立ち止まって、行列をなしている光景にも、とても違和感を覚えます。

芸術作品に接するのはその人の感性なのだから、好きなら好き、嫌いなら嫌い、興味ないなら興味ないで、立ち止まったり素通りする姿の方が正しいのだと思います。

それを、鑑賞は解説から入るものでもあるかのような解説の前に立ち止まり、そして行列を成している光景は異様に思うのです。

そしてあろうことか、「習作」みたいなものについてまで、歩みを止めて見ている。

有名な美術館あるいは美術展に行ったことがある人なら、そんな作品に見入っている人など、美大の学生っぽい人以外には見たことがないのではないでしょうか。

それを、日本においては有名作品が少ないのは仕方がないとしても、そういった作品を並べ、それに解説を加え、観客の足をとどめるというのは、ある意味で、見せるものがないので、それ以外の作品を尤もらしく見せ、来館者を見た気にさせているというふうにしか、私には思えない。

そして見る側も、美術館での鑑賞とはそういうものであるかのように、有名作家の名の下、すべてを見落とすまいと言わんばかりの歩みの遅さが作る人の行列は、主催者側の意図するとおりに行動している盲目的な奴隷だか、新興宗教の行列ような気配さえ感じ取るのです。

有難くもないものを有難いと思い込まされているかのような・・・

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このような構図で延々美術展をやっていれば、需要と供給の関係で、有名人の名前さえ出せば人が集まるということで、美術館側も海外で安く借りれるつまらないものしか集めなくなり、来館者側も、それが価値のあるものだと思い込まされることで、観客としてのレベルも下がっていくことでしょう。

これと似たような構図で質が著しく低下したものにテレビ番組があるでしょうが、芸術の領域というものもそうなってしまわないことを切に望みます。

そんなことを芸術の秋のこの季節に思うのでした。

※美術館に関する過去ブログ

ゴヤ展@国立西洋美術館
オルセー展@国立新美術館
ルノワール展@国立新美術館
フェルメール@マウリッツハイス美術館
フランス19世紀絵画展@横浜美術館
オランダ画家に対するドイツ哲学者の言葉
なぜ美術館に行くのか

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