馬鹿には 仏も黙る

深い心の世界、浅い心の世界のことは、経典・論書に明らかに説いている。

『秘蔵宝論』(空海)

社会人になると色んなヒトと出会うことになると思いますが、

そのなかで、同じことを聞いても、悪い意味で 全然違ったふうに捉えるヒトと出会ったことも多くあると思います。

このヒト、説明の受け取り方を間違えたのかな? と思えるときもありますが、実は、本当にそう受け取るヒトがいるのです。

このことは、社会人をやって随分たっても ずっと確信を持てずにいました。

なぜなら、それを認めると、人の相互理解や 人の認識における成長は無い、ということになるからです。

ただ、近頃、社会科学や哲学・歴史の世界を抜けて、仏教の世界観(実は仏教こそ最高度な哲学だと言えますが)を勉強していて、空海の書物を読むなかで、

このことが「真なり」と決定的に書かれていたので、そのことを記しておきたいと思います。

一つのことはヒトの人生経験によって深くも浅くも捉えられる

仏の徳は限りない。その一つ一つの徳は一つの教えの主となって現れている。そして、その一つ一つの身体から人々の宗教的な素質に従って、さまざまな真理の教えを説いて生きとし生けるもの救済されている。

秘蔵宝論(空海)

ここでは既に ヒトの理解に違いがあることを前提として、その違いをもたらすものについて、空海は「宗教的な素質」という言い方をしています。

別の場所でも、

真言の教えは一つ一つの言葉、一つ一つの名称、一つ一つの単語の意味、一つ一つの文章が、それぞれ無辺の意味内容をもつ。(中略)

だから、これはうかつに解くことができない。もしもそのとおりに説くならば、素質のないものは疑いを抱き、非難する結果、きっと現世では仏となり得ず、死後には無間地獄に落ちるだろう。

だから、仮の姿で現れた仏は秘して口にせず、教えを伝える菩薩はそのままにしておかないのも、このゆえである。

『秘蔵宝論』(空海)

「素質のないものは疑いを抱き…」と云っています。

そしてこの事実(宗教的素質)を踏まえて、菩薩の教えは、そのヒトに応じてなされるのみで、一つの教えが万民に等しく与えられるわけではない、というのです。

そして、仏に至っては「秘して口にせず」と言っています。

これをもって、私は長年の悩みの1つが解消されました。

話の通じないヒトは確実に存在していて、そういうヒトたちと認識を一致させようとして議論しても徒労に終わるので、ただ黙った方がいいということを確信しました。

ちなみに、仏教を読み出してから、思い返せば、私が大学生の頃に読んでいたニーチェの言葉が蘇ってきました。

ニーチェの主著『ツァラトゥストラかく語りき』の冒頭に、こんな言葉があります。

「万民に与える書、かつ、なんぴとにも与えぬ書」

これも、まさに この書が云っていることに対して、万民が同じ理解に達することはない、ということを言っています。

そして 空海が云った「宗教的な素養」- このことをニーチェは、その著作(何であったか失念しました)のなかで、

私の文章には独特の香りがあって、受けつけるものだけを受け付けるが、中途半端なものが読むと、己の精神の汚さが暴露されて不機嫌になる、、、

みたいな言い方をしていたと記憶しています。

これなど、「素質のないものは疑いを抱き、非難する結果、きっと現世では仏となり得ず、死後には無間地獄に落ちるだろう。」という部分のそのまま通じている気がします。

ニーチェが云っていたことが、仏教の世界のなかで答え合わせができた、と思えている今日この頃です。

閑話休題。。。

私たちは、小学生の頃から 学校教育を受け始めて、その中では、いつも答えは一つであり、解釈に幅のない知識や計算を教えられていきます。

そうすると、答えは一つであることに影響されて、いつしか一つの共通理解があると思ったり、最大多数の理解が一つの真実である、というような「一つのモノの見方」を身につけてしまいます。

が、実際は、答えが一つでないような領域において、こと「理解」という領域においては、精神の素質によって、浅い解釈、深い解釈、賢き解釈、愚かな解釈など、様々である、ということのほうが真実だということです。

一つの教えに傾倒してしまう愚

また一方で、ある優れた教えに従うことで幸福になれるとして、その教えを実践しているヒトがいたとして、これなどに対しては、空海はこう言っています。

仏たちの慈愛は真実の身より働きを起こして 人々を救いおさめたもう。病気に応じて薬を与え、諸々の真理の教えを設けて、その煩悩にしたがって、彼岸への渡し場に迷っているのを救ってやる。

筏を得て彼岸に達すれば、筏は捨てなければならない。筏そのものに救いの性質は無いから。

『秘蔵宝論』(空海)

仏教の教えは、すべて悟りへの道中のことなので、当然「こうすればうまく行く」式の教えは、次の心の段階にいく手段でしかありません。

なので その途中段階で、(たとえば菩薩がそのヒト向けに教えた)教えを金科玉条のごとくいつまでも大事にするのは、上記の譬えでいえば、「筏」にいつまでもすがっていると言えて、このままの状態ではダメだということです。

※余談ですが、精神の位階の最高点(悟りの境地=十往心の十段階目)においては、それは言葉で表現しつくせない状態なので、ここまで達してはじめて「筏」は不要になると言えます。

分相応に理解し、分相応に「分相応」を知り、足るを知る

では、この「素質の差」というものは どうしようもないものなのでしょうか。

たとえば、「上品・下品」「慈しみ・蔑み」「賢・愚」「深い・浅い」といったような価値基準のうち、「下品・蔑み・愚・浅い」については、それを引き上げようとする試みを「教育」と言うのでしょうが、

教育がなせることは、知識量を増やすのみであり、知識量の増加は、必ずしも「上品・慈しみ・賢・深い」状態になれるわけではありません。

あくまで、そこに至る「きっかけ」を多く得れるだけであり、そこに向かうかどうかは本人次第です。

※思い出しましたが、柳生宗矩もそのようなことを云っています。
記憶の糸「学び」に対する戒め ※柳生宗矩より

この「本人次第」という部分こそが「素質の差」なのだと思います。

再び、それでは、この「素質の差」というものはどうしようもないものなのでしょうか。

結論は、どうしようもない、と私は最近になって確信に至っております。

が、だからこそ実践しやすきものとして、「分相応」とか「吾れ 唯 足るを 知る」という「あり方」を、先人は知恵として残してくれているのだとも思い至るのです。

ただし、分相応に満足する、という心のあり方は、誰にでもも出来そうな単純なことに見えますが、自分の心をありのままに知ろうとしないと到達できないと言えます。

なぜなら「分相応」は、私は何によって、喜び、怒り、哀しみ、楽しむのかを知った上で、自分の境遇とバランスをとろうとする精神的営みに他ならないと思うからです。

よって「分相応」は悟りとは似て非なるものではあるけれども、とても似ているものとも思えます。

なぜなら空海が云う以下の文章のうち、「さとり」を「分相応」と読み替えても、「分相応」について言っていることとしては、さほど違和感はないと思われるからです。

煩悩が生ずる原因と条件とは無数無量だから、さとりをえる原因と条件もまた無数無量である。
あるいは煩悩がさとりの条件ともなる。煩悩の実態を観ずるから。
あるいはさとりが煩悩の原因と条件ともなる。さとりが執われを生ずるから。

秘蔵宝論(空海)

ということは、「分相応」を体得する機会は、現世的・世俗的にもそこかしこにある、と言えます。

ちなみに、「分相応」にそれぞれの頑張りが「豊かな社会」という同じ目的に向かって分業状態になっていることが理想と、福澤諭吉も云っていたと思います。

記憶の糸『学問のすすめ』の骨子を捉えなおす

昨今の Twitterなどのうえで繰り広げられる言論空間の醜さは、このあたりのことを忘れ去っていることにあると思います。

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