2021年10月、新しく岸田内閣が誕生して、産経新聞上で、北朝鮮拉致問題の記事が出ていたので、なんとなく読んでいたのですが、
記事の締めくくりには、拉致問題を解決できないのは「国家の恥」と言うような表現まで出てきておりまして、
めぐみさんの母、早紀江さん(85)は「残酷に連れ去られた国民を40年以上も救い出すことができないのは、異形そのもの。解決できなければ国家の恥です」と、日本全体での取り組みの必要性を訴える。
北朝鮮拉致問題の優先順位について、自分なりに考えておこうと思いました。
日本国民全員と、拉致被害者を天秤にかけるとどうしますか?
まず私は、この拉致問題を、極端に相対化させるとどう言えるのか、ということを思考実験してみたのですが、私の頭に浮かんだのは次のことです。
北朝鮮が、ミサイルの照準を外したり、平和条約の条件として、日本に対して拉致問題を拉致問題の外交カードを取り下げると言うテーブルがあった時、どう判断するか。
当然、拉致被害者の当事者は、優先度を変えることに対して許すまじき、ということかもしれませんが、直接の被害者ではない国民からすると、自分たちの命が脅かされている状態を解消したいというエゴがあります。
もちろん、まさかミサイル発射はないであろう、とか、発射されたとして、自分たちの頭の上にミサイルが落ちてくる確率は低いであろう、というような確率論を持ち出すと、
ミサイルといったことは何となく非現実的で拉致問題よりも優先順位が上がらないかのように思えますが、決して優先順位は低くはありません。
まさか核弾頭を打つとは思いませんが、もしミサイルが飛んできて、それで死傷者が多数出たときに、その死傷者たちにとっては、
拉致問題なんてどうでもよくなるに決まっています。
身も蓋もない、人間自然な人の発想だと思います。感じ方だと思います。
遠くの人よりも近くの人の方が大切です。
過去の悲劇よりも、今の悲劇のほうが重大です。
対象者も、少数よりは多数の方を優先することでしょう。
拉致問題もまた相対的なものである
ということは拉致問題もまた相対的な問題であると言えます。
今時点で、それに匹敵するような問題が起きていないかのような状況下では、拉致問題がクローズアップされますが、
かなり引いたところから見ると、拉致問題解決は「目的」ではあり得ません。
ちなみに、北朝鮮と平和条約を締結することも「目的」ではないと思います。
「目的」は、日本全体の安全を確保することだと思います。
そのための手段として、北朝鮮との平和条約締結があり、そこに至るプロセスとして、「拉致問題解決」があると言えます。
ということは、拉致問題を解決する、というのは、1つのプロセスを進めるにあたっての障害の解決に注目している状態であり、
これはよく日本人がやる「手段の目的化」というものと似た構造に思えてならないのです。
拉致問題と並列で議論しなければならないことが起きたら、並列に議論できる言論空間であることを望む
そしてこのような状況下によって何が起きるかというと、他に選択肢があるのに、それをフラットに検討することを放棄してしまい、
気づいてみたら、どん詰まりに陥って身動きが取れなくなる、とうものです。
そして、その状況では、単一論点以外のすべての議論が「悪」と見なされて、言論が封殺されるのです。
私は、対、北朝鮮における安全保障の言論空間が硬直的になりすぎてはいないか、ということを、
冒頭のような新聞記事を見て思うのでした。