記憶の糸 仏教

年齢も37歳になって、自分の人生のなかで、そこそこ社会経験も積んできたし、仕事で成果も出せるようになっているし、これから「学ぶ」って何を学ぶんだろうと、感じている年頃です。

そしてそんな風に思っている人は多いと思います。

が、この世の中には、学ぶことはまだまだ無限にあります。

たとえばそのなかのひとつが「仏教」です。

仏教は経験を積まないと理解できない

ちなみに仏教は、子供のころから身近といえば身近です。

日本人であれば、お葬式は仏教式が殆どでしょうし、お墓もそうだと思います。

しかしながら仏教は正直いって、子供向けではありません。論理的な説明では絶対に腹落ちしないからです。

話を聞く本人が、その「論理的説明」を、身をもって自分の経験と対応させることができないからです。

理解とは、自分が経験したこと以上のことは理解できないのです。

なるほど、読書は疑似体験の場であるということはよく言われています。

が、それは、その疑似体験で理解できる資質の人だけが、その疑似体験で理解するのであって、その資質のない人は、理解はできないことでしょう。ただ、知識と知るのみです。

そういった、自分の経験が張り付いていなければ理解できない説明というものは、この世には確かにあるのです。

経験無しでも理解できる知識など、自分の生活を良くするために用いられる知識のうち、もっとも価値のない知識と言えましょう。

たとえば、「色即是空」「空即是色」という言葉が、実感として感じられるでしょうか?

そしてこのことは、ドイツの哲学者である、ショーペンハウアーやニーチェも言っていて、

自分自身の経験というものは、詩を理解するにも、歴史を理解するにも欠くことのできない条件である。
なぜなら自分の経験とは、詩や歴史が語る言葉の、いわば辞書にほかならないからである。

結局、書物を含めてあらゆる物事からは、誰にしても、自分がすでに知っていること以上を聴き出すことはできない相談だ。体験から近づいていく道を持ち合わせていないような事柄には、誰も聞く耳をもたない。

『この人を見よ』(ニーチェ)

本日、学んだこと。他者ぬきの自己はありえないということ。

さて、そんなこんなで、私はとある塾に出席してきたのですが、そこの配布資料のなかで、まだまだ自分が学ばなければならないことが書いてありました。

それは、「今の自分は、自分を取り巻く、過去から現在にいたるまでのすべてとの関係性によって構築されている」ということであり、

たとえば、「誕生」ということだけ取ってみても、「私」は無限の命の連鎖の先端に成り立っていることが分かります。

こう考えてみれば、この世のすべては、網目状に張り巡らされた関係性のなかに存在しており、何らかの形ですべてつながっている、ということです。(ちなみにこれが「縁起」の本意ということです)

その観点で、人間関係に目を移してみれば、「自己の存在」は常に「他者の存在」との関係性のなかで成立しており、「私」なしの関係性はありえず、「他者」なしの「私」もありえないといえます。

つまり、この私にして、その他者であり、その他者にして、この私なのです。

こういう認識をもって、いまの自分の現実を見渡すと、他者のへの視点が変わってくるのではないでしょうか。

つまりは、その他者を幸せにすることが、私の幸せにつながる、というものです。

この辺りの考え方は、私も心当たりがないではないです。社会人人生のなかで、これに似たことは実際に起きているからです。

また、知識面でも、武田信玄の「情けは他人(ひと)のためならず」といった言葉がこれに近いと思います。

こんなことは、平凡に言えば、「他人に親切に」とか「自分の嫌なことは他人しない」といったような、子供のころに聞いたことがあるようなことに近いのかもしれませんが、

それをこの年齢になって、改めて学び直すということは、とても重要なことだと思います。なぜなら、学ばないと、そんな子供の頃に聞いた言葉が、頭に浮かぶことさえないからです。

というわけで、大人になっても学び続ける姿勢は必要だと思います。

いや、大人になってからこそ本当に学ぶべきで、我々の大学までの勉強など、本当にごく限られて領域のことでしかない、という自覚を持つことが肝要だと思いました

でなければ、我々が精神的に進歩する機会は、ないです。

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