記憶の糸

日本国民の新聞への信頼度が86%だそうです。

過去の国際比較の調査だと、↓のような比較があるので、日本人の新聞への信頼度は高すぎると言えましょう。

とはいえこの結果、まったく納得のいくものだと思います。

なぜなら、私も新聞を読んでいますが、大手紙は、実によく「事実」を伝えてくれていると思います。

この点、まったく信頼できると思います。

この日本国民の新聞への信頼度の高さを、戦時中、さんざん嘘を報道されたのにその教訓が活きていない、と批判を目にしたこともあります。

が、戦時中は「事実」ではなく嘘を伝えていたので論外です。だから戦時中の教訓を、と言ってもその批判は的を外しているでしょう。

ちなみに新聞社は、自分たちの賛成・反対の事実を、記事の大小、あるいは記事の有無で表現しているように思われます。この点、議論する余地はあります。

が、私にとっては、その「事実」のみの報道というものが間違っていると思うのです。

事実は、解釈次第ではいかようにでも変色します。事実はひとつなどと安心していたら痛い目を見ます。

それは東北大震災のときに顕在化しました。

初期の時点の原発報道で、報道機関(新聞ではなくTV)は、何の基準値も示さずに、どこどこで「○○シーベルト」「△△ベクレル」とやったのです。

これで首都圏をはじめとしてパニックが起きました。水の買い占めなどが行われたのは記憶に新しいと思います。内容においては、新聞もこのテレビとあまり変わらなかったように記憶しています。

上記の報道は、事実ではあるけれども、それをどう解釈していいか分からず、「放射能」といえば原爆・チェルノブイリしか連想しないような大多数の人がパニックに陥ったのです。

情報に接する人に影響を及ぼすのは、事実そのものではなく、その解釈・評価なのです。そして解釈・評価が複数ある方が、人は情報の取捨選択の力は鍛えられます。

なぜなら、解釈・評価こそが、行動に直接働きかけてくるものだから、自分自身に直接判断を迫られるからです。

そしてもし解釈・評価がなければ、人は自分の記憶のなかからのみそれを拾い出す。

原発の場合、それが「原爆」「チェルノブイリ」だったのであり、誰も科学的な専門基準値を持ち出して、だから安全である、という判断にならなかったのは止む無しだと思います。

事実は1つだが新聞が「解釈」で世論を誘導する危険がある

私が、「事実」のみ報道に対して間違っていると思うのは、上記のように「事実」のみ報道に対して世論の信頼感がありすぎると、今度は何らかの「解釈」を新聞が持ち出したときに、考えるきっかけもなく、いつの間にかそっちの方向に誘導されているという状態を懸念するからです。

たとえば、TPPでの日経新聞の記事がそうでした。

TPPを締結すれば、日本にとってのメリットばかり挙げていましたが、それは相手国にとってのメリットでもあり、結局は、そこで激しい競争が起きるという視点にまるで触れない(内閣府だか経産省がこう言ってますという)事実報道だったと記憶しています。

ちなみに私は、条約の類は、言いだしっぺには必ず「利」があるが、そうでない国々にはそうとは限らないという現実がある、というスタンスのため、TPPには懐疑的です。

このようなときに、新聞が世論を形成して、危険な橋を渡る方向に、さも安全であるとリードされる状態に、社会が出来上がってしまっているのはやはり危険だと思います。

この観点から、私は新聞がよく事実を伝えている ― そこから、新聞に対して信頼があり過ぎる状態を、間違っていると思い、ここにその記憶を残しておきたいと思います。

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