ここで、もう一つ序でに驚いて置くのが有益である。
それは、モーツァルトの作品の、殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或いは不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだということである。
制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、計画を案じ、ひとつの作品について熟慮専念するというような時間は、彼の生涯には絶えてなかったのである。
しかも、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。
強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。
命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。
モーツァルトの環境が、若しもっと善かったらという疑問は、若し彼自身の精神がもっと善かったらと言う愚問に終わる。
これは、凡そ大芸術家の生涯を調査するに際して、僕らを驚かす例外のない事実である。
『モオツァルト・無常という事』(小林秀雄)
僕らは、天才と自分を比較するとき、天才を自由気ままな、創作に専念できる雲の上の存在だという先入観から見ていきます。
が、実際はそうではない、ということを知っておいた方が、自分を省みる時に有益だと思います。
我々は、天才を天才といちづけることで、その批判に自分がさらされることをかわしていると言えましょう。
記憶の糸 - 天才についての記事
・天才を間近に見る ゲーテの場合
・天才を間近に見る ベートーヴェンの場合
・『天才』についての見方 ※芥川龍之介の意見