記憶の糸

歩きスマホは、鉄道駅での迷惑行為ランキングを登り続けいていることと思います。

そして最近では、駅のアナウンスで、歩きスマホを迷惑行為として注意喚起をし始めています。

が、正直、迷惑量の多寡を持ち出しても、この問題は決着つかないと思います。

売り言葉に買い言葉で、それでは「本を読みながらの人は?」「そもそも歩きの遅い人は?ご老人は?」「立ち止まってる人は?」という比較を持ち出したら、迷惑量では論理的に歩きスマホを否定することはできないからです。

ただ少しだけ言えば、上記は人口比率の問題で、本を読む人も歩きの遅い人も、これまで気にならない人数だったと言えるでしょう。

分かりやすい例では、歩みが遅くなるほどのご老人は、通勤の時間帯に駅にはそもそもいません。いたとしても、非常に少ない。

だから遭遇率も低く、遭っても避けるのも気にならない。そしてお年寄りはそれで当然という良識が働いている。。。

スマホは情報統制状態

そんなことよりも、私が危惧するのは、そもそも、歩きスマホをするほどに人を惹きつけてしまっている状態が、半ば情報統制状態にあるのではないか、ということです。

ゲームにせよ、Facebookにせよ、LINEにせよ、人の「空き時間」という隙間に巧みに侵入して、メイン生活の時間までも巣食っているように思います。

その巣食われた状態では、その人が触れる外界の情報が極端に偏りだすのではないでしょうか。

なぜといって、単純に、生活時間の多くの時間が、ある特定の情報のやり取りに限定されているからです。

そうなると、結果的には、半ば情報統制状態になっているといえましょう。

そして、その情報統制下でプライベートな情報のやり取りしかなされないのであれば、知らず知らずのうちに、物事の見方も、まったく持てないか、あるいはそのプライベートなやり取りのなかで表れる見方しかできなくなるのではないでしょうか。

情報統制とは、そういうものです。いや、人間の脳がそういうものと言った方がいいと思います。

そんなことは卑近な例では、会社のコミュニケーション空間にずっといれば、その会社あるいは業界の物事の見方に染まっていくというのがそれです。

理想的には、普段からいろんな情報に触れて、あの人はこう言う、この人はこう言う、という中で、自分としてはどうなんだ、という状況にある方が、その人の自立性が失われずに健全だと思います。

だから、スマホにどっぷりな人は、それと対極にあるような情報 ― プライベートな情報のやり取りが多いのであれば、パブリックな情報(新聞など) ― へのアクセスも確保しておくことで、自分に入ってくる情報のバランスをとるようにした方がよいと思われます。

おすすめの記事