記憶の糸

雇用形態がどんな形であれ、社会で働くという経験したことのある人にとっては、

例えば、お店で、「研修中」や「新人」と名札のついた人に対しては、多少の不手際には目をつぶることでしょう。

何のことはない、自分もかつてはそのような状況にあり、お客さんにも助けられたりした経験があるからこそ、その名札がついた人を許せるのです。

ただ、この状況は「許す」ことを止め、合理的なロジックで批判しようと思えばいくらでもできるのです。

たとえば、サービスに対する支払額が同じなら、サービスレベルの劣る新人を客に相対させるのはけしからん!

同じ料金を支払っているのに、ある人はベテランからサービスを受け、自分は新人をあてがわれたとするなら、明らかにサービスの質が異なるのであるから、サービス料を減額すべし!

と、こう言えば、論理的には否定できないと思います。そのとおりだからです。

が、このような人を指して、我々は「おかしな人」と片づけるのでありますが、

もう少し突っ込んでいえば、「合理と情理のバランスが欠落している人」であり、

「社会は、合理だけで運営されているわけでも、情理だけで運営されているわけでもない」という現実を理解できない愚か者、として定義づけることができます。

子育てという経験が共有されないなかでは、「泣き声」は批判される対象になる

そんなことを最近感じるのが、電車(公共の場)における、子連れに対する不寛容です。

よく子供の声がうるさい、と言われますが、公共のエリアにおいては、ある程度許容すべきなのではないでしょうか。

「赤ちゃんを育てる」という極めて自然の過程で起きることに対して、子育てを経た人であれば、公共の場における赤ちゃんの「泣き声」は、当然ある程度は許容できると思います。

が、現実は、「赤ちゃんの泣き声は排除すべし」、という意見がネット上で見られるのです。

私はこの秋に子供が産まれましたが、このことが頭をもたげています。

「赤ちゃんの泣き声」が騒音としてうるさいと思われるから、新幹線などの長時間の電車利用がためらわれます。

もちろん、あやしても泣き止まなければ、客室スペースから出るなどの対処はしなければならないと思うものの、

公共交通を利用するにあたり、「うるさい」と思われることにそもそも悩まなければならないというこの状況が、はっきり言って嫌です。

そして変だと思います。

なぜなら、泣く年齢の赤ちゃんを連れた世帯は、公共交通を利用するな、と言われているに等しいからです。

しかしながら、この「赤ちゃんの泣き声の排除」という動きは、もう止まらないでしょう。

まず理屈では「赤ちゃんの泣き声は騒音」を論破するのは不可能です。本当にうるさいと感じている人の理屈と平行線になるだけです。

冒頭の新人の話と同じです。

そしてこの動きが止まらない決定的な理由は、これを許容できるだけの経験を持った世帯が、今後、どんどん減少していくからです。

これも冒頭の新人の話と同じです。

・・・そのうち、赤ちゃん世帯専用車両とか出てくるのでしょうが、

そうやってセパレートしてあげなと共存できないのであれば、それは社会の不寛容さがまた一段レベルが上がっただけであり、

決して褒められたことではないでしょう。

不寛容のスパイラルは必然的に起きる。そのことを自覚できているのか。

これは日本人として常々思うことですが、

電車の到着がわずかの時間でも遅れたら、そのことを車内アナウンスで詫びる状況は異常です。

でも、多くの人は、詫びられるから、「まったく遅れないこと」が普通であり、「1分でも遅れるのが悪」と認識するようになってしまい、

そして遂には許せなくなっていくのです。

日本人の公共エリアにおいては、このような心理プロセスがいたるところで進行しています。

きれい好きの人が、潔癖症になっていくのとまったく同じプロセスです。

エスカレーターで、言われもしないの全員が「左(地域によっては右)に寄って」、その隊列を崩せないのもそれでしょう。

鉄道会社によっては、エスカレータで左に寄るのをやめてくれ、と言っている鉄道会社もありますが、

もう日本人には止めることができないでしょう。

エスカレータで、右にいて、通路を塞いでしまっている人の後ろに着いた人の表情を見てごらんなさい。

「どけっ」とか「ありえない」といった表情をしています。

急いでいる本人が悪いという見方ではなく、急いでいる人を遮るとは許せない、となっているのです。

そして大多数の人は「左に寄って」いるから、もう尚さら許せないのです。

こうやって日本人は、自分たちの気に入らないものをどんどん排除していくことでしょう。

そして国民規模で不寛容さは止まらないでしょう。

この国は、本当に住みづらくなっていくことでしょう。

ただ、寛容への道を拓くのは、本当に住みづらくなるのを待たなければならないでしょう。

坂口安吾の『堕落論』の言葉を借りれば、

この国は、正しく不寛容の道を突き進み、本当に不寛容になりきることによって、自分自身の不寛容を発見し、自分たちの寛容をあみだすだろう。

ということです。

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