「お祝いの言葉」に想像力の欠如とか難癖をつける浅はかな知性

最近、とある人の話で、娘が結婚したときのお祝いの言葉のなかに違和感を感じた、というものがありました。

その内容というのは、

「娘さんが結婚されたんですね。次はお婆ちゃんね!」という言葉に対して、

「産めない事情があるかもしれない」
「産まない理由があるかもしれない」
「という想像力は必要じゃないか」
「とりあえずおめでとう!で良くないか」

というようなコメントをしている、というものです。

想像力が欠けているのはその当人

このコメント、正直言って想像力が欠如しているのは本人のほうです。

そもそも、それを言ってくれた人の年代や常識によっては、娘が嫁にいったら次はお婆ちゃんというライフステージの変遷が当たり前なのであれば、

「おめでとう」の次に、言葉を足すとすれば、「次はお婆ちゃんね」という言葉は、その年代の人であれば致し方なくそのような言葉が出てくるものなのです。

人の言葉の選択は、その人の年代や常識に色濃く影響を受けるであろうということを思い至ることすらできずに、

「想像力の欠如」とか言って難癖をつけるほうが、言ってくれた相手に対して想像力を欠いていると言わざるを得ません。

ちなみにですが、お祝いを受ける側の立場としては、

「とりあえずおめでとう、でよくないか」などではなく、まずは、自分におめでとう、と言ってくれる人のその気持ちに、謙虚に感謝あるのみなのであります。

浅はかな合理主義に一矢

この手の難癖は、浅はかな合理主義を身につけた人に本当に多く見られるのですが、

このような知性による儀礼的なことへの無邪気な批判は、本当にやめてほしいと思います。

理由は後述しますが、ちなみ私が、この人と同じロジックで批判をせよと言われれば、「とりあえずおめでとう」ですら批判できます。

たとえば、

「娘さんのご結婚、おめでとうございます」というのに対して、「でき婚・同性婚の可能性があるので、おめでたいと思ってないかもしれない」とか、

「息子さんの就職、おめでとうございます」というのに対して、「働くということが辛いことであると知ってるのであるから、おめでとうと言われても素直に喜べないかもしれない」とか、

「子供の成人式、おめでとうございます」というのに対して、「死に一歩近づいたので、おめでたくないかもしれない」とか。

「おめでとう」という言葉に対して、否定の「〜かもしれない」とか言い出せば、いくらでもあり得ます。そして事実、素直に喜べないときはあります。

ただ、そんなことを言い出せば、一切のお祝いの言葉を発することはできなくなるはずです。

この本人が、誰かに向かって「おめでとう」と言った時に、上記のような言葉が返ってきたら、本人はなんと言うのでしょうか。

もはやコミュニケーションは不可能でしょう。黙るしか残されていないと思います。

自分の批判ロジックを演繹すると、このようになるという点は、本人は気づいていないと思います。

「とりあえず、おめでとう」までは許せるらしいので。

だから「浅薄」なのです。

そして、論理を未来に飛ばせないという点でも、当人の想像力は欠如していると言えましょう。

ちなみに、この「黙る」という状態になると、その結果なにが起きるかというと、人と人のつながりの遮断するということなりましょう。

で、こうやってますます寒々しい社会になっていくのです。

そのような社会になってほしくない、という私は、

このように、いかにも浅はかな知性で、世の中の、問題にするほどでもないことに敢えて難癖をつける態度について、

それが「浅はか」であると射ておきたいと思います。

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