
電車のなかで、泣いている他人の赤ちゃんの首を絞めるという事件が発生したようです。
電車で泣いた他人の赤ちゃんの首絞める 22歳男逮捕「苦しくなくなると思って…」
2017/1/18(木) 産経新聞
電車内で女児の首を絞めたとして、埼玉県警大宮署は暴行の疑いで、さいたま市西区の契約社員、前田晃祐容疑者(22)を現行犯逮捕した。
逮捕容疑は17日午後6時55分ごろ、大宮駅に停車中のJR川越線の電車内で、富士見市の女児(1)の首を絞めたとしている。
同署によると、女児は当時電車内で泣いていたため、母親(25)が抱いてあやしていたところ、突然首を絞められた。前田容疑者は女児と面識はなく、「赤ちゃんが苦しくなくなると思って首をしめた」などと供述しているという。女児は病院に搬送されたが、命に別条はないという。
現場に居合わせた同県警浦和署員が前田容疑者らを同駅のホームに下ろし、「首を絞めた」と認めたため現行犯逮捕した。
子供の泣き声は、確かにうるさく、許せるものではない。
そんな人は確実に増えていることでしょう。
なぜなら、子供の泣き声が身近から消滅したからです。
単身世帯が増えるなかで、既婚率も減少の一途をたどり、賃貸マンションで一人暮らしをしていたら、身近に子供などいないと思います。
そうなると、子供の泣き声など騒音でしかない、という感覚になっていくのです。
ならざるを得ないと思います。
かつては、そんな泣き声も身近にあったことと思います。近所で赤ちゃんが生まれた、など。
そしてそれが当たり前の社会であれば、「みんな通る道さ」ということで、許せるのです。
たとえば、少し話はそれますが、コンビニや飲食店の店員の胸に、「新人」とか「実習中」というバッチがつけてあれば、
多少の不手際があっても許せる人は多いと思います。でも、そのバッチがなければ、イライラすると思います。
それは、自分も、アルバイトや仕事で、新人時代があり、そのときに他の人への迷惑をかけたという経験があるからこそ、
「みんな通る道さ」ということで許せるのです。
それが「経験値」の有無が及ぼす影響です。
その「子育てや子供がいる環境の経験値」が、これからの少子高齢化でどんどん減っていくなか、今回と同様の事件めいたことは増えることでしょう。
社会的に「経験値」が無くなっている領域
ちなみに、同じようなこととして、介護などがあると思います。
ここでの事件もきっと増えることでしょう。
もともと、お爺ちゃん・お婆ちゃんと3世帯で住んでいたような家族構成であれば、
介護のなんたるかを身をもって経験しているから、年老いた親に対しても許せる範囲があるでしょうが、
核家族で、社会人になった家から出て、あるとき介護しなければならなくなって自宅に戻ったりして同居しだしたら、
もうストレスで耐えられず、なにか起こると思います。
それが、「経験値」がないということの結果です。
人為的なルール適用でますます無機質になったその後
そして上記のようなことを回避するために、人為的な解決策が講じられることでしょう。
たとえば子供であれば、電車の車両を分けるとか。介護であれば、親の世話を維持できないとして、孤児院の老齢版のような施設ができて、そこに預けっぱなしになって、死ぬまで、子と親が分断されたままの状態になるとか。
そして結局のところ、このような「くさい物には蓋をする」式の対応は、ストレスキャパの小さい人種はますます量産されていくことと思います。
それでいいのか。そうなるだろうが、私は決していいと思いません。
大事なことは、そんな人為的なルールをつくるのではなくて、家族の位置づけを見直すことだと思います。
個人的なエゴを土台とした自由を享受できる核家族主義と、束縛を受けるが「経験値」を多く積める大家族主義と、
そのふたつの両立がいかに可能か、という議論が起きることを待つしかないと思われます。