コロナでマスクという手段が目的化した。東日本大震災の節電と同じ。

2020年10月現在、2020年2月頃より世界的な流行をしているコロナウィルスの感染症対策と経済活動をもとに戻すことをバランスさせることを模索している今日この頃です。

そして、そこでTwitter上でバトルが勃発しています。

マスクはいつでも必ずつけろ、という派と、
マスクは必要に応じてつけろ、という派です。

言うまでもなく、ロジカルに考えると、後者が普通だと私は思います。

マスクは、人が密集していたり会話をしなければならない状況において、飛沫感染を防ぐ程度にしか役立ちはしません。

そして何より、満員電車での通勤がされているのに、そこで集団感染が起きず、繁華街での接待を伴うような飲み屋で集団感染が起きているという事実から、専門家でなくても分かることとして、どうやら飛沫による感染が一番感染しやすいのではないかということです。

なので、そういう場以外でも、一律にマスク着用を求めるのは、「感染リスクがゼロではない」ということが代表的な意見ですが、明らかに「気分がなし崩し的に論理化されている」し、「手段が目的化」していると言えます。

手段の目的化は、東日本大震災でも起きた

ちなみにこのような「気分がなし崩し的に論理化」されたり、「手段が目的化」するのは、東日本大震災のときの「節電」でも起きた現象です。

私の過去ブログで記録しています。

過去ブログ節電という手段の本来の目的を忘れるなかれ ※東日本大震災

概要としては、原発が停止している状況で、夏と冬の電力消費が激しい時期に、消費電力が発電量を上回ってしまうと、一斉に停電になり大混乱が起きる。だからピーク電力を抑えるように節電をしよう、というものだったのですが、

いつしか節電だけが一人歩きして、どんな時でも節電をしていないケースを槍玉に挙げて批判する、ということがテレビで繰り返され、前提なしの節電が礼賛されるようになりました。

そしてコロナウィルスの感染防止のためのマスク着用でも同じことが起きているのです。

これは日本人の思考パターンの特性だと言わざるを得ないと思いました。

※覚えておくべきは、専門家といわれる人たちは、リスクをゼロにすることしか言わないので注意が必要です。そして彼らはこう言います。「私達は専門家としての意見を述べているだけだ」と。彼らは、それによって社会を混乱させても無頓着です。もし専門家でなければ「扇動だ」と言われてもおかしくない行為です。

たぶん、これを修正するには教育しかないのですが、数十年単位で時間がかかることだと思います。

なぜなら、馬鹿な考え方は、「馬鹿は死ななきゃ治らない」の諺どおり、死ぬまで治らないのです。今時点、左翼的思想をもった人たちが、相変わらず反戦平和を言い続けるのと同じです。

ということは、その世代的に社会から居なくなるまでは、ずっと同じ発想をし続け、それに基づいて情報発信をし続けるということです。

そして、テレビを見る層(=高齢者)がそうなのであれば、それに内容を合わせに行くマスメディアは、同じような見方を垂れ流し続けることにもなります。

よって、いつまでたっても、「社会全体としてその見方を是正しよう」というふうにはならないと思います。

空気のルールが出来上がるとそれに従わない他人が腹が立つ

そして、どれだけ馬鹿げた理由であれ、いちどルール意識が広まってしまうと、人は、それを守っている側は、それに従わない側のことが腹が立つのです。

実際に、電車のなかで喧嘩があったりしました。

こういう人間の心理のあり方を考えると、無用のルールであればあるほど、それを作ってしまうのは、人の反感を助長するだけで、無益で有害です。

なので、ルールのようにするのは本当に慎重にした方がいいことでしょう。

分別ある人は、マスクをするしかない。

で、マスク着用を求める人たちは、行ってみれば「デマに流されやすい、何も考えいない人たち」なのですが、

この人達の振る舞いを愚かだとして、論理的に考えることができる人たちがマスクを付けなくてもいいか、というとそうではありません。

分別なき人たちから喧嘩をふっかけられる可能性があるからです。

これに巻き込まれるほど無益なことはありません。

よって、分別ある人もまた、愚かな多数派に従わざるを得ないことでしょう。

おすすめの記事