ルールそのものの見方について ※信号無視OK

たまにニュースになることとして、信号無視を注意したら殴られた、というのがあります。

これに対して自分だったらどう考えるか。

まず明らかに車が走ってこないのであれば無視すると思います。でも、幼稚園児がいたら、待つかもしれません。。。

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そもそも信号とは何でしょうか。それは、交通ルールを守ってもらうための標識です。

では交通ルールとはなんでしょうか。それは、事故がおきないようにするための約束事です。

また、視点を変えると、事故がおきたときの責任の所在を明らかにするための基準です。

ルールとは、これがないと収集がつかなくなるので設ける約束事であり、それを破ったときの責任の所在を明らかにするための、とにかく設定した根拠であると言えます。

だから収集がつかないような状況でなければ、ルールとは無用のもの、と言えるのではないでしょうか。

この考え方は、ルールの運用というものについてロジカルに考えると出る結論ではないでしょうか。

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だからといって、上記のような考え方の基、ルールを破ってもいいとは私は思いません。

理由としては、この考え方の結果、そもそも「決められたことは守る」という規範意識を破壊するからです。

ルールが成立するのは、「ルールそのものがあること」と、とりもなおさず「約束事は守る」という「規範意識があること」。この2つがなければ、ルールそのものが成立しないと思います。

もし規範意識が破壊されれば、社会は無政府状態になりましょう。どんなルールを決めても、警察に捕まらなければ何をしてもいいというような状態になります。

今の日本がこうならないのは、とりもなおさず規範意識の賜物であり、そんな「規範意識を破壊する行為・考え方」だけを肯定することはできません。

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わたしは、「ルールの暫定性」と「規範意識の尊重」、この2つの間のバランスが大事だと思います。

どちらか一方の視点で凝り固まった人が相手を見ると、きっと許せないことでしょう。信号無視による事件は、ここから起こっているのはほぼ間違いないと思います。

ルールなんてそんなものと思う人と、規範意識を盲目的に守ろうとする人と。

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ちなみに私が、両者の間でバランスをとることだ大事、つまりは時によってはルールを守ったり破ったりすべきだと思うのは、ルール軽視は述べたとおりで規範意識を破壊するからですが、

ルール絶対のほうについては、その結果人の考え方は矮小化してしまい、そのルールが本当に無用になっても、それを変えていく力が、社会に生まれてこなくなると考えるからです。

少々話しが外れますが、かの伊達政宗が遺訓で下記のようなことを言っています。

 仁に過ぐれば弱くなる

 義に過ぐれば固くなる
 礼に過ぐれば諂となる
 智に過ぐれば嘘を吐く
 信に過ぐれば損をする

一方の価値を突き詰めると、それは不利益となる、ということを述べています。

ルールの遵守ということについても、これは当てはまりましょう。

で、ルールとはそんなもんだ、状況によってはルールは守らなくてもいい、というスタンスの人たちがいれば、いまのルールはそれでいいのか、という動きの芽になり得ると思います。

そういえば、憲法9条というのもその類だと思います。憲法に関していえば、発祥の地である西欧では、変更するのが当たり前です。だから状況によってはルールは変わるのが当たり前なのです。

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憲法9条については余談でしたが、とにかくルールというものについて、ルールとはなんぞや、ということについて、いちど議論をするタイミングがあってもいいと思います。

この、「ルールそのものが暫定的である」という点と、「規範意識」と、このふたつが社会的に位置づけられていないことに、この事件の原因があると思います。

・・・なにやらたかだか信号無視の話がえらく膨らんでしまったように思いますが、考えたことを留めて起きたいと思います。

ちなみに、冒頭に戻るとするなら、

車が明らかにこなけば信号無視はするでしょうし、幼稚園児がいたら、規範というものを見せる必要もあると思うので、信号を守ると思います。

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