記憶の糸

近頃、「働き方革命」が盛んに叫ばれていますが、これはほぼ成功しないと思われます。

そもそも、長時間労働がなぜ発生しているのかということを、構造的に把握し、その構造からの解決のアプローチなしには、働き方改革は徒労に終わることでしょう。

長時間労働の構造的問題とは?

私は、以前のブログでも書いたことがありますが、

日本人の働き方の構造的な問題は、はっきり言えることとして、総合職にメスを入れない、ということに尽きると思われます。

「総合職」は、きれいに言えばゼネラリストですが、別の言い方をすると、一人で何でもやる、と言うことです。

しかしながら、このような仕事のやり方は、複数の業務と複数のクライアントの掛け算で業務があると、自分で業務をコントロールすることはほぼ不可能です。

働き方革命といっても、できることがせいぜい、割り切って「私は決めた時間に帰ります」と宣言するか、自分の仕事のある部分を定型化して高速でこなす、といったこと以外、できる事はあまりないでしょう。

そしてこんなことをして極限まで仕事を効率化しても、自身が抱えている仕事のどれか一つが炎上したり、クライアントから「どうしても」ということで急な依頼が入った場合は、この効率化路線はたちまち無に帰します。

上記のようなことは「総合職」として働いていたら日常茶飯事だと思われます。

トラブルのない仕事なんてありません。計画通りに完璧に進む仕事なんてないのです。

こんなことだから、総合職という形で業務に当たっている以上は、働き方革命と言うことで、安定して定時に帰ったりする事は絶対にできないと思います。

身体はひとつです。一人で業務の種類を多数かかえる以上、あれをやったら、これができないのです。

組織的に業務を部品化するとは?

一方で、業務を部品化するとどうなるか。

これはつまり西欧型の働き方(分業)だと思われますが、

まず、部品化されているから、別の人に依頼することができます。

また、部品化されているから、一つの作業の作業見積もりが精度よく出ます。

そして、別の人(チームや部署)と分業できるから、何日かかるかと言うことが容易に出ます。

で、このやり方が、組織だって運営されていて、社会の運営の前提になっていれば、

今の日本みたいに、言われたら何が何でも本日中にやったり、全部自分がやらなければならない、みたいな切迫感はないことでしょう。

なぜなら、分業体制での営みが前提にあるなら、上記のような「全部自分がやらなければならない」状態はナンセンスだからです。

こういった、前提条件なしに、個人が何でも仕事を抱えていて、その人なしには仕事が回らないような状況がそこかしこに作られていて、

どうして働き方革命など、組織だってできることができましょうか、絶対にできないと思います。

しかもこの「全部自分でできる人」こそが、日本社会では「仕事ができる人」でもあります。

成功事例は、そこだけで完結できる(≒半部品化)ような仕事の事例が多い

私が見る限り、テレビで取り上げられるような、働き方革命の事例は、

そもそも部品化されているような業務そのものが事業として成り立っているような仕事の事例が多いと思います。

あるいは、業務を遂行するにあたって、取引先とのすり合わせを要しない事業が多いように思われます。

例えば、スマホアプリの開発などですが、これは自分たちのペースで仕事をすることができます。

しかも、スマホアプリの開発は、それ単体で業務が完結するような対象です。つまり、もともと部品化されているに等しく、仕事のコントロールはかなりできると思われます。

逆に言うと、スマホアプリの開発を受託としてやっている現場では、まったく仕事のコントロールはできないことでしょう。

依頼主(取引先)という制約があるからです。

というわけで、このような事例を、テレビが働き方革命の事例として紹介するのは、誠に浅はかです。

そんな事例よりも、そもそも総合職という業務形態に対しての課題提起をするような事例の紹介などを、私は期待したいと思います。

そうでなければ、日本人の働き方は、絶対に効率的にならないと思います。

なぜなら、総合職の個々人の能力でもって、仕事のさばき方も含めて働き方革命という名のもと効率化を追求していくと、

それもまた、職人技の領域に達し、

結果、誰も真似できず、

組織全体としては一向に良くならないからです。

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