アイドルの追っかけの心理を知る 『推し、燃ゆ』より

私は40歳になって、振り返ってみると、自分の人生行路のなかで出会ってきたヒト達は、ある一定の範囲のヒト達だと言わざるを得なく、

自分の思考や感じ方は、その一定範囲のうえに構築されていると言わざるを得ないと思います。

しかしながら、これからも、仕事上で多くのヒトと関わったり、何より部下がいる状態になると、

自分の経験値から外れたモノの見方・感じ方に出会ったときに、それに呼応する自分の感じ方が無いとなると、相手に共感できず、それが結果的に相手を不快に思わせたり、潰したりしてしまうのだろうなぁ、と思います。

そしてこのことは、転じて言えば、自分の子どもへの接し方も同じことであろうなぁ、とも強く思うわけです。なぜなら、よく言われますが、子どもは自分とはまったく違う存在だからです。

ということに思いを巡らすと、そうならないために自分が出来ることは、より多くの経験値を増やして、そこから得られる感情を自分のなかに持つことだと言えますが、

実際的には無理なので、疑似経験値を増やすしかなく、それは結局は、読書を通じて増やすしかないため、そういう読書の仕方をしようとしています。

そして、そいうジャンルの本としては、芥川賞受賞作品が、そういった内容であるとういことを聞きまして、そこを中心に読んでいこうと思っています。

記憶の糸人の気持ちが分かるようになるための読書には、人気ランキングの作品は役に立たない

そしてこの文脈のなかでの読書として、今回、『推し、燃ゆ』(宇佐見りんという作品を見つけまして、

アイドルの追っかけがどういう心理であるのか、ということを切れ端ながらも知ることができましたので、そのことをまとめておきたいと思います。

アイドルの追いかけが「私の存在価値」という次元が存在する

この本の主人公(女性・高校生)は、アイドルグループの「自分の推し(男性)」の熱狂的なファンです。

どれくらいファンなのかというと、「推し」のために身を捧げることが自分の存在価値と思えるほどです。

私も、好きなものを見ていたい・聞いていたい・その世界に自分を没入させたい、という感情はありますし、アニメや漫画や小説などでそういう作品とも出会ってきました。

ただ、対象に自分を捧げることが「自分の生きている証」という次元で捉えることはなかったです。

ちなみに本文中には、こんな文章がありました。

あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。

体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。

「自分の生きている証」を欲する人が、自分と他者の関わりの中に生きている証を見つけれず、アイドルを追いかけることにそれを見出すあり方を極端に持っていくと、こういう状態に接近するのか、と知ることができました。

アイドルの追いかけは、自己肯定をできる場所がそこ以外に少ない人であるといえる

ちなみに、ここまでアイドルに熱狂的になる人は、表面から見れば、イケメンと疑似恋愛しているのかといえば、そんな感じでもなくて、それは以下のような箇所が言っています。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。

常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。

見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。

あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそんなふうに思ってないからなんだろう。

というわけで、疑似恋愛ではなく、本当に「生きている証」という次元で捉えているのだと思いますが、

この登場人物には、それ以外の生活のなかで、自分を肯定する何モノも見つかりません。

「自己肯定できるモノ」という切り口で見ると、この主人公は何もないのです。

そして、アイドルの「推し」にすべてを注ぎ込む行為が、その「推し」が人気を博するにことで、間接的に自分の満足に返ってくるため、ここに「自己肯定感」を感じているのでしょう。

なにかにハマっているヒトは、自己肯定が足りてないかも。

そんなわけで、すごく乱暴にまとめると「自己肯定できる領域が少ない人が、アイドルの熱狂的な追っかけになり、相手に尽くすことで利他を感じながら、それが利己(自己肯定)につながっている」ということなのですが、

これを現実に投影してみると、たしかにアイドルの追っかけは、容姿がよくない人が多いとか、中高年のオバサンが多いとか言われています。

これを平均的に見てみると、自己肯定ができる場所が少ない人たちだとも言えます。

ドラゴン桜という漫画で有名なセリフ、「バカとブスこそ東大に行け!」というがそれでしょうし、

専業主婦をやってきて、子育てが終わったときに、自分にできることは無いと思った中高年のオバサンは、自己肯定ができる領域は少ないと言えましょう。

このことから、何かに熱狂的にハマっているヒトが周囲にいたとして、そしてそれが「自分の存在価値」とか「生き甲斐」とまで言う人がいたとしたら、

きっと、そのヒトには、なにか自己肯定感が足りないのではないか、という想像力を働かせながら接した方がいいと思いました。

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