結論としては、違ったかたちで不平等が再生産され、固定化する方向に動くだけだと思います。
学歴が社会における不平等を生み、かつ、これが固定化しているのは問題だという論はよく聞くことです。
そしてこの学歴による不平等を解消せんと解決策として「多峰型社会」「セーフティネット」がよく挙げられます。
が、これらを実現した社会が来たとしても、競争あるかぎり不平等は生まれ、人が成功モデルを維持・追及しようとするかぎり、格差が固定化されようとする動きはなくならいでしょう。
以下、学歴社会自体の効用は考慮に入れず、「多峰型社会」、「セーフティネット」について論じようと思います。
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まず、「多峰型社会」について。
学歴による選抜を抑えて、技能や個人事業による成功モデルを構築しようというものです。
が、その分野にもまた競争の原理が働くの必定であり、不平等がなくなるはずはありません。
よく引用される20:80の法則。競争をする限り、この割合は成功者と失敗者に対しておおよそ変わらない、というより、発 生してしまうのです。
そして成功者は、自分が生活を維持していくためには、その成功モデルを追求・継続せざるを得ず、そうなれば「組織化や世襲化」「採用の選抜」は避けられないといえるでしょう。
そうすればなんのことはない、今の企業社会の学歴選抜と同じ仕組みが、ただ別の領域において適用されるのみです。
なるほど、確かに多峰型になっために、企業社会以外における成功者の数は増えるかもしれない。
が、それと同じだけ、敗者も増えるのは目に見えています。
産業分野に限りがあり、そこの関わる人間の数が一定であるかぎり、結局は「成功者」と「敗者」の比率は変わらないのです。
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次いで「セーフティネット」
ここでいうセーフティネットとは、失敗者に対してリベンジする機会を用意するという文脈で捉えるとします。
こちらも完備されたからといって根本的な解決にはならないでしょう。
逆にセーフティネットを整備すればするほど、格差は拡大するのではないでしょうか。
なぜなら、敗者に対して、再チャレンジの場が与えれているのに、それを活用しないのは本人の問題だ、となるからです。
そうなれば、こちらの方が過酷で、「本人の意欲の問題だ」となれば、懐かしいマジックワード ー 「自己責任」という言葉が、「敗者」の立ち位置を一層低めるように作用します。
つまり、敗者救済のロジックが封殺されるのです。
だとすれば結果として、敗者の側に回った人は、今以上に「敗者であって当然である」となり、より一層の格差を生み、そしてそれが固定化するのは必定です。
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さらに、親の職業が、格差を再生産する、というのを問題視する論もありますが、これなどは社会制度の問題というよりは、もはや 自然の摂理です。
皆さんの周辺を見たとしても、官僚の子は官僚、教師の子は教師、芸術家の子は芸術家、サラリーマンの子はサラリーマンになりやすいのはよく見る光景でしょう。
それは生まれてからの環境が、人の人生に大きな影響を与えることが自然現象である以上、どうにもならないことだと思います。
もし親の職業による格差の固定化を排したいのであれば、親の家庭の教育方針から改造する以外にはない。
が、これは制度によってはどうにもできないことであり、逆にこれを制度によってどうにかしようとすることがどれだけ不自然なことであるかは言うまでもありません。
ある意味ではこの現象を極力抑えることができるのが、学問 ‐ 大学受験の機会だと思います。
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世のなかの不平等社会を問題視する多くの論は、いつも学歴社会の批判からスタートします。
いかにも分かりやすいし、その不平等を肯定するにせよ、否定するにせよ、そこに当てはまる人の自尊心や劣等感をくすぐるのみです。
学歴社会を解消したその先はどうなるのか、という点については何も語られていない。
なぜなら「その論」が、理想の社会状態を想定し、そこから現状を批判しているのではないからです。
言い換えれば、現状の社会問題の裏返しに、無責任にも寄りかかって、ただ「現状に問題がある」と言っているに過ぎないのです。
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私自身は不平等や格差についてこう思います。
不平等や、格差の固定化圧力はそもそも問題ではない。
ただし、それによって、社会が硬直し、国の活力が失われる状態になるほどの不平等・格差固定は問題だ、と。
たとえば、アフリカや南米の一部の国では、大金持ちが国富を独占し、産業を支えるべき国民を搾取し、国連が教育支援や経済援助を しても、一向に産業が育成されることがないと聞いたことがあります。
このような状態にならない限り、つまりはそれが原因で日本が全体として荒廃に向かわない限りにおいて、不平等と格差はあって当たり前だと 思います。
また、その限りにおいての不平等・格差は認めるべきだと思います。
ただ、いまの日本で進行していると思われる不平等・格差のあり方が、上記のような状態に近づいているのか否か、については、私は測定すべき指標を検討できておらず、この点、私は無責任発言をしていることは自覚しております。
とはいえ、格差や固定化を是正した先の状態を提示せずに、ただ現状に対して批判を加え、結果として社会のそれぞれの立ち位置にいる人たちの対立を煽るだけの不平等•格差反対論に対しては、ここに批判を残しておきたいと思います。
さらに誤解を恐れずにいえば、社会の「それぞれの立ち位置の相違」を、味噌も糞も一緒にして、「不平等・格差」という批判的用語を当てはめること自体、正しきことなりや?とも。