孤独の時間は、「自分との付き合い方」を知ることに充てなければ意味がない

今となっては昔のことですが私は大学時代に読書をしていました。

そこで何を読んでいたかと言うと、いわゆる古典でした。

それが社会人の今となっては、基礎教養としてビジネスの現場で結構使えているという自覚があります。

使えているとはどういうことかと言うと、自分の行動を古典にいる人物に照らし合わせて、評価できるということです。

これによって、自分が失敗をしたら、それが失敗にあると自覚できます。

自分を相対化できない人が多い

ところで最近まわりを見ていますと、上司に叱られない限り、自分の行動が失敗として認識できない人が多いようです。

特に、部下や同僚やメンバーとのコミニケーション上の問題などでは、今までの自分のやり方のみで来ている人には、周りから苦情言われても、それがどこに問題があるのかが全然わからないようです。

これはつまり、頭の良し悪しとは別次元の問題で、自分の行動を裁く基準を、自分の中に持っていないと言うことです。

こういう人は、おそらく自分の行動を相対化する、という思考をしたことがないのだと思います。

そして、自分の行動を相対化するためには、他者の評価軸が、自分の中に厳然としてあることが求められますが、それを培うのは他でもない、古典のなか以外にはないと思われます。

孤独は自分を裁く評価軸をつくるための時間。あるいは、その前準備にための時間。

よって、大学時代に読書をするならば古典に限りますし、よく、自分は孤独とて、大学時代を懐かしむ人がいますが、

それが単に自分の反社会的な行動で友人知人が全然できないから、という理由で社会に背を向けた状態でよしとしてその孤独状態にあったとするならば、

その期間はほとんどその人を成長させる事はないでしょう。

孤独の時間で獲得すべきは、自分を見つめる、ということ以外にはあまり時間を使わないほうがいいと思われます。

私が今まで会ってきた人の中で、孤独と言う状態を自分を甘やかすために使った人たちの中で、バランス感覚に優れた人はいませんでした。

もちろん、自分を見つめるために、その比較対象として読者である必要はありません。海外旅行に1人で行って、現地のいろんな人たちに触れて、バランス感覚を持っている人も多く見てきました。

ただ、読書が最も安価で、最も自分を見つめやすい比較対象の素材を持っていると言えるでしょう。

そしていずれにしても、孤独は、自分のなかに自分を裁く軸を作る知的作業に充てない限りは、不毛な、自分を甘やかすだけの時間となり、結果的に、その人を退化させることになるでしょう。