「自分を知ること」と「悟り」との関係 ~大日経より~

最近、弘法大師・空海の本を読む機会がありまして、

そのなかで、空海がしきりに「根拠はこの経典に書いてある」ということで言及していた経典に、「大日経」というものがありました。

というわけで、この天才がここまで言及するからにはどんなことが書いてあるのだろうと思って、大日経の本を探して読むことにしました。

私が買った大日経はこちらです。現代語訳ですね。

 
そして、いろいろと気づきを得たのですが、そのなかで得た大きな気づきとしては、

「悟り(大日経では "菩提" と書いて "さとり" と読む)を得るには、自分の心を知らねばらない」

そして、仏教の修行というのは、

「自分の心を知るに至るための雑音を取り除いていくことの手助け」

ということでした。

秘密主よ。菩提(さとり)とは自己の心を正しくありのままに知ることである。(中略)そもそも自己の心を離れて得られる事は少しもない。

『大日経』

秘密主よ、このゆえに知らねばならない。
我らがさまざまな法を説くのは、菩薩の道をゆく者たちの菩提心を清浄にして、その心を完全に知るようにするためであることを。

『大日経』

自分自身を知るということ

究極の悟りという世界は、世の中を「空」と観じきることであるとされているようですが、さすがにこの境地に達するには世俗の人(私)には不可能だと思われます。

参考までに、この「空」思想の真髄は 般若心経にコンパクトにまとめれられいるようで、

般若心経のなかにあるこのくだり ― この世の一切は「不生不滅(ふしょうふめつ)、不垢不浄(ふくふじょう)、不増不減(ふぞうふげん)」あたりがそのなかでも核となるモノの捉え方のようです。

ところでこの般若心経、経典はインドから中国に持ち帰られて翻訳され、それを空海が日本に持ち帰ったわけですが、中国に持ち帰ったのは西遊記に出てくる三蔵法師です。

まぁ、そんなことはさておくとしまして、「自分を知る」ということについてですが、

私が思うところとしては、「自分は、なにに喜び、なにに怒り、なにに哀しみ、なにに楽しむ」のかを、

もうこれ以上は深堀れないところまで言葉に落とし込んでみること、つまりは自身の喜怒哀楽の起源を知ること、そこまですれば「自分を知る」には十分ではないかと思っています。

その諸感情の起源と、自分の「あり方」や「生き方」のバランスを取っていくことで、私は「分相応」という境地に達することができるのではないかと思っていまして、

そして世俗の人間は、分相応に留まる限り、心の平穏を得ることができると思うのです。

もちろんこれは一度達すればもう何もしなくてよくなる、ということではなく、

分相応といっても、分相応であろうとすること自体に拘りが出ると、それがまた新たな「怒り」の起源となったりして心のバランスは崩れますし、自分自身やその周りの環境が変化すると、そのバランスを取りにいかないと、また分相応は崩れましょう。

分相応の心境といっても、常に日々の現実から動揺を仕掛けられていると思います。

一方で、西洋の哲学的・思想的な切り口から「自分を知る」というのもあります。これも分かりやすい方法かもしれません。巷の心理テストなんかよりも よほどよりよく自分を知ることができると思います。

われわれの友人関係、敵対関係、目つき、握手の仕方、記憶、忘却したもの、書物、筆跡、これらすべてのものがわれわれの本質について証言をなしている。(中略)

汝は今まで真に何を愛してきたか、何が汝の魂を引きつけたか、何が魂を支配し同時に喜ばせたか? 若い魂はこの問いをもって人生を振り返って見よ。

これら汝の敬慕した対象の系列を汝の前に立てよ。そうすればおそらくこれらの対象はその本質とその継続を通して汝にひとつの法則を、汝の本来的自己の根本法則を明らかにするであろう。

こういったところから、自分自身を知ることができましょう。

如来に言わせると「自分の心」≠「自分自身」

そうやって「自分自身」を知ったうえで、それを乱す日々の出来事は何でありましょうか。

例えるなら、日々の出来事は、水面に落ちる雫。

この雫が「自分の心」という水面に落ちて 波紋を作ります。

大多数の人は、この波紋の形や高い低いが「自分自身」である、と見ているように思えますが、この「自分自身」は如来や菩薩に言わせると表皮にとどまることであり「自分の心」ではないと言っています。

いわゆる「自分自身」とは、移ろいやすいもの、いずれは消えるもの、ということのようです。

自性(自分自身であること)は、幻や陽焔(かげろう)、鏡に映る影、声の響き、旋火輪(松明を回したときに見える光の輪)、乾だつ婆城(蜃気楼のこと)のようなものである。

『大日経』

ちなみに、こうしたモノの見方は、「座禅」の体験をした人は実感として分かるかもしれません。

静寂の中で、自分ひとりとなったとき、せっかく自分に迫ろうとしているのに、自分の頭に湧いて寄ってくる想念や雑念 ―

- それは現在だけではなく、過去に落ちた雫の波紋や、未来に落ちるであろう雫の波紋もあります。

そしてその波紋は、自分自身が生み出したものではあるけれど、それはあくまで自分の精神統一の邪魔をする「自分ではないもの」、という感覚。

そうやって、過去・現在・未来の波紋を取り除いていこうとする精神的な営みを続けていくと、その波紋は、ただ私個人の事物に対する受け取り方が生んでいる想念とか幻影であると観じる瞬間が来るようです。

なぜなら「雫」自体も、本来的には「ただ在る」だけで、良い雫も悪い雫もありません。

すべてはそれをどう受け取るか、「自分の心」が残るのみです。

そして最後に、一般的に言われるところとしては、自分の心とは、「今この瞬間」をどう受け取るかのみであり、「生きる」とはその連続としてただあるのみ、という感覚に近づいていくようです。

※※※

禅を例に挙げましたが、このように仏教の修行が「雑念を取り除いていく」のは、「自分の心」に迫るためです。

どれだけ心理テストを用いても、如来がいうところの「自分の心」には迫ることはできないでしょう。

心理テストが到達できるのは、ただ「雫の種類」によって起きる「波紋の種類」を示すところまでです。

ちなみに、大日経にはこんな記述もありました。

秘密主よ、では、どのようにして自己の心を知るのか。もし分類して悟りを求めるなら、得る事は無い。

『大日経』

ここでいう「分類」は、まさしく科学的である「心理学」のことだと私は思います。

「科学的な自分への接近」の限界地点だとも言えます。

科学は、この限界地点までの範囲においてのみ有効な手段だといえましょう。

波紋を起こす「水」自体(自分の心)をどうやって知るのか?

さて、世俗で生活をするうえでは、ここまで分かればいいかもしれませんが、

結局ヒトは、その「波紋の広がり方」に苦しんでいるのである以上、その波紋を引き起こす「水」自体をどうこうしなければ、どうにもならないでしょう。

ただ、「その苦しみを取り除く」として、この波紋を引き起こす「水」のところまで思考的に迫っていったとき、

捉えることができるのは「波紋」までなのに、「水」本体に迫るとは一体どうすればいいのでしょうか。

しかも、「雫の種類」とそれよって起こる「波紋の種類」が、社会生活上は「その人の個性そのもの」だというのに、「水」本体はいかなるものなのでありましょう。

そこにはもはや自分自身と呼べるものではない何モノではないか、と観じられてきます。

と、ここまで来て、はじめて、私はそこに、般若心経の「空」めいたものに思い至るのです。

仏教が言っている、「自分は、自分であって、自分ではない」というやつです。

菩提と一切智は自己の心に求めよ。なぜなら、心の本質は静浄だからである。

しかし、その心は自己の内にさがしても得られない。自己の外にもなく、内と外の中間にもない。

自己が内にもつ六根(眼・耳・鼻・舌・身の五官と意識)が心ではなく、音や色・形など自己の外にあって六根の知覚をおこすものが心ではないのであるから。(中略)

心は眼界(目に見えるものにとらわれたところ)にはない。

耳・鼻・舌・身の感覚の世界と意識の六根にとらわれた世界にはないので、心は見えず、顕現するものでもない。

なぜなら、虚空の相が心の本来の姿であり、いろいろな分別と無分別を離れているからである。

『大日経』

※※

こんな感じで、探求しようと思えばまだまだできそうですが、私は世俗の「生」を生きているので、これ以上、深く立ち入るのは止めようと思います。

それをやりたいとすると、空海に言わせてみると、実際的には、真言宗の密教修行を経ないといけないみたいですので(笑)

以上のような次第で、普段何気なく使用する「悟り」、「自分自身」、「自分の心」とか「分相応」ということに少し気づきを得た読書体験でした。

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