「昨日と同じ今日が来ない」ことを自覚するのは「近しい人の死」

「今日一日を大事に思って生きなさい」

人生30年も生きていれば、人からであれ書物からであれ、この言葉を言われたことはあるはずです。

しかしながら、この言葉が腹落ちする人は殆どいないことだと思います。

なぜなら今日と同じ明日がいつもくるので、今日一日を大事に思うことを、いつも先延ばししてしまうのです。

さすがに何か人生の大きなイベントの直前には、今日という日を大切にしようと思う日が来るかもしれません。

結婚式を控えて、もう一人身ではなくなる心境。

出産を控えて、これからは親になるのだと思うときの心境。

でも、いずれも計画されているものだし、どちらかというとポジティブな話です。

これがあるから「今日という日を大事にしよう」とは思わないと思います。

本当にそう思うためには「失う」経験が必要

「今日、一日を大事にしなければならない。過ぎ去った日は取り戻せないのだから」

この言葉が腹落ちするのは、結婚や出産のような、何かが加わるときではなくて、何かを失うときだと思われます。

何かが加わったときは、それを引けば元通りだからゼロの地点に戻るだけです。

ですが、何かを失うときは、元通りからマイナスになるのです。

なので、「喪失感」とか「現実感がない」という感覚になるのです。

もちろん、こういう感覚を読書で先取りできることができる共感力豊かな感性の人もいるでしょう。

が、大多数の人は、実際に経験してみないと分からないのです。

決定的な経験は、親しい人の死

そしてこれを決定的に経験できるのは、近しい人の死です。

その翌日から、いつもいたあの人は居ません。

しかもそれが急に起きると一層その印象を深めるでしょう。

時間だけはいつもどおり流れていますが、昨日までと決定的に違うのです。

そして、人生の順番からいくと両親の死でしょう。

経験した人は心底分かると思いますが、亡くなってからわずか2日後くらいです。

あの「火葬されてこの世から体が消える」という、最後のお別れの瞬間を経験すると、昨日と同じ今日、今日と同じ明日は来ないことを痛感するはずです。

この時、「もっとこうしてあげれば良かった」、「生きて会っているときに、もっとその時間を大事にすれば良かった」と心の底から思うことでしょう。

一日を大事に生きることの意味を、現実が我々に問いかけてくるのです。

若くしてそのことを経験できないのが残念

そしてこういう経験を若いうちからすると、対人関係や仕事での生き方に差が出てくると思います。

細かいことはここで書きませんが、結局は、一日を大事にする生き方こそが、利他というスタンスの何であるかを心の底から理解し、それを実践できるからです。

そして、その考え方に依って行動することが、自分のスキルアップや、相手を思いやる心や、信頼の獲得につながっていき、まわりが無視できない存在になっていく可能性が高いからです。

が、残念ながら、今日においては寿命の平均年齢が上がっており、自分と一番近しい人を失うのは、ひょっとしたら社会人を終えるころかもしれません。

そのときまで、「今日一日を大事に生きる」ことを理解することなく生きていたとしたら、

結局はその人の持てる力の半分も出なかったか、歪んだ生き方をしていたとするなら、そのまま社会人を終えるのです。いい歳をして新人をいびるパワハラ上司などはその代表例でありましょう。

本当に残念ですが、これが現代における、生活のなかに「死」が遠のいてしまったことの宿命なのだと思います。

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