記憶の糸 修羅場 できる人

今朝、たまたまテレビを見ていると、日蓮宗の修行(日本3大荒業)の特集を放送していました。で、Googleで検索してみましたが、

検索結果日蓮宗の荒行が過酷過ぎる! 大本山中山法華経寺大荒行堂

この荒業は、過去に死者を出すほどの荒業で、詳細はこのまとめに譲りますが、ざっくり言うと、わずかな睡眠時間とわずかな食事で、それ以外はひたすら読経と水行をやると言うものです。

で、私はこの内容を見ていて、お坊さんのあの落ち着いた人格を得るためには、こういった修行をしないとダメなのだなぁと思いました。

ビジネスマンも同じ。修羅場を経験した人としない人の差。

そこで、ふと思ったのが、社会人になってたびたび人材育成の話をするのですが、そこでいつもキーワードとして出てくるのが「修羅場を経験しなければならない」ということです。

どうも「本当にできる人」は、これを経験した人が多く、「なんちゃってできる人」や「できない人」は、この経験を経てないと思われます。

となると、会社の教育プログラムに沿って、本当に優秀な社員ができるのかどうか、ということについては、「どうなんでしょう」というようなことを会話するのですが、

この仏教の荒業を知って、やはりできる人になるには修羅場を乗り越えなければならないと確信しました。

仏教は、人は「自分の限界」に追い込まれないと開眼しないことを知っているからこそ、死者が出るくらいのこのような荒業を、成長プログラムに組み込んでいるのだと思います。

痛い思いも何もせずには、人は成長しないということでしょう。

なので、最近の企業社会の風潮である「●●ハラスメント」と「ワークライフバランス」という名のもと、「苦しい」要素がどんどん取り除かれてる状況では、修羅場をくぐり抜けてきた叩き上げで優れた人材は殆ど生まれないことになるでしょう。

その結果、「平均的には仕事ができる」が、「リーダー的な仕事はできない人」が大量発生し、先天的に仕事ができる少数の人たちが、それら「できない人」たちを、機械のように取り扱う状況になっていくのだと思います。

それはつまり、広く言われている「二極化」ということです。

叩き上げの「できる人」が存在する社会では、「使う人」と「使われる人」の中間を埋める形で存在した人たちが、もう存在しなくなると、叩き上げに引き上がる可能性も摘んでしまうので、より二極化することでしょう。

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