記憶の糸

今年一年は、お歳暮・年賀状といった贈り物について気づきを得た一年でした。

このITのご時勢、贈り物はなし、挨拶関係はメールが殆どではないかと思います。私も、挨拶は紙でするのは年賀状くらい。お歳暮などは贈ったことがありません。

ところが、今年はこうした贈り物・挨拶状が、交流の再開・深化にとても効くことが分かった一年でした。

というのは、

年賀状だけでも続いていた友人は、転機(結婚・転勤・出張など)のときに声を掛けてくれます。それをきっかけとして会うことになります。

当然、かつては親しい仲だったわけですから、会えば話が合います。そして、また年に一回くらいは会おうということで関係が続きだします。

でもって、上で書いたようなきっかけがあれば、

私がちょっとした旅行に行ったときに、家庭での団欒が可能な友人に対しては、料理で使って貰えるようなご当地食材を贈ったりします。

しかも、私は関東。友人は関西が多い。なので、関西人があまり行かないような東北などの地元産品であれば喜んでもらえます。

そして、そういうことをすると、友人から「今度は自分が」ということで、何かの機会によくしてくれる。。。

私はこうしたプラスのスパイラルに、気づいたら入っていました。

これも頻度も増えたり義務のようになってくると煩わしくもなるでしょうが、生活拠点の距離からせいぜい年に1・2回が限度なわけです。

というわけで、大変良好な関係を、負担なく気持ちよく維持することができます。

・・・

よくよく考えてみると、昔からの贈り物の風習は、村にいたから気遣いだけでしていたのではなく、こういう側面もあったのではないでしょうか。

 一度、村を出たらもう二度と会えないかもしれない。
 だけど、せめて挨拶状で関係をつなぎとめる。
 死ぬまでにもう一度でも会えたらいい。
 その「もう一度」をいつでも可能にするのが、
 挨拶状や贈り物だった。

挨拶状・贈り物の習慣にはこんな、二度と会えないかもしれない人への再会のきっかけとしての役割もあったのではないでしょうか。

企業社会の現代において、「気遣い」「面倒」なところが取り上げられますが、それは贈り物の風習の一面だけだと思います。

そしてかつてはそうだったであろうという状況が、IT技術によるコミュニケーションが発達した現代において蘇っていると思います。

 「手軽に誰とでも」つながることができる
 それが返って旧知との再会を妨げる。
 結果として、
 村(=旧知)から出ると二度と会えなくなってしまう。

いつでも連絡がつくという安心感が、いつまでも連絡をとらずにいて、気づいてみたら連絡をとるのが憚れるようになっているのはよくあることかと思います。

逆説的ですが、人とつながりやすい時代だからこそ、つながり続けなくなっていると思います。

そこを続けさせるようにしてくれる手段。贈り物はこんな社会的な位置づけができるのではないかと思います。

当たり前のことを当たり前と言っている感がありますが、改めてそう思うに至ったこの一年でした。

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