コロナ禍で明かになったことのひとつとして、この国では、国民ひとりひとりの自主性に任せて節度ある行動は期待できない、ということです。
「要請」といえば、強制ではないからといって外出し放題(しかも中高年がメイン)。
それが批判され出すと、今度は猫も杓子も「自粛」と言いだし、「自粛を要求する気分」があらゆる領域に広がり出しました。
結果、「外出自粛要請」を巡って、ルールを作る側も、受け取る側も、不毛な言語空間を形成しています。
そしてその言語空間に、強力にバイアスを掛けているのが、「ヒトの命は地球より重い」という価値観に従順に従う「専門家」たちです。
そもそも外出自粛要請の目的は何だったのか
コロナウイルスの流行によって出された緊急事態宣言に伴う「外出自粛要請」ですが、
先に確認しておくべきは、その目的です。
これは、流行が拡大しやすい「3密(密集、密閉、密接)を作らない」というものが大目的です。
この大目的を忘れると、すべての中間目的が、等しく目的に見えてきて、議論が錯綜しだしました。
外出自粛要請に対する反応の2つの極
さて、それでは「外出自粛要請」に対する反応を見ていきたいですが、
この反応には、2つの極があります。
・3密になる可能性があるものはすべて止めるべき
・3密を作らない範囲において活動は許容すべし
私は、「自粛要請」というからには当然後者のスタンスですし、日本の感染状況は、ヨーロッパほどには大量の死者(2万人以上)が出ているわけではないので、今はそれでもいいと思っています。
そしてその方が、行動する人の自主性を要求されるので、分別ある人間であることを前提としているようで、個人が頼りにされている感じが大人な感じがします。
が、一方で、前者のスタンスも多数います。
いわゆる専門家と言われる人たちがそうです。公的機関もややそれに近いかもしれません。それからTwitterで自分の正義を振りかざす人たちもそうです。
たとえば、専門家の代表格として、「ノーベル生理学・医学賞」受賞者の山中教授は、公園のジョギングする人の吐く呼吸で感染する可能性があると言いました。
そこまで言えば、ジョギングに限らず、ただそこに居るだけでも同じことが言えます。3密ではない環境で買い物している人も同じことでありましょう。この手の「論理適用の無節操」は危険だと思います。
そして、
日本山岳協会は、登山はやめてといい、
サーフィン連盟は、サーフィンやめてといい、
地方自体たいは、町の公園の遊具を使用禁止テープで巻きました。
これらすべては、時間帯と場所を適切に判断すれば、3密は発生しないのですが、可能性がゼロでないものはすべて自粛の対象にすべし、という考え方が幅をきかせています。
これが専門家の考え方なのです。
が、これにより、人々の活動を殺しています。結果、別の意味で、多くの人を死に至らしめるでしょう。
人命を絶対価値にするからリスクゼロという発想から逃げられない
専門家は、部分最適解を、唯一解のように言います。
しかし、実社会で様々な活動をしている人たちに必要なのは、リスクを抑えた形での現実解(全体最適解)です。
ウイルス感染のリスクがゼロである必要はありません。というか不可能です。そんなことは皆、分かっていると思います。
だからリスク抑制されて状態で、それでもわずかながら感染する人が出るのは仕方ないとし、その「わずか」を維持したまま諸所の活動を再開できることを望んでいます。
が、専門家が言っていることを聞いていると、彼らはリスクゼロを基準に何か言っています。
それは、ウイルス感染においては、そのリスクは「死亡」という人命に関わるもので、「人の命は地球より重い」という価値観が大手を振っている日本だから、人命にかかわることについてはリスクをゼロにしないと気が済まないのでしょう。
しかし、この価値観は、幼稚であることだけは確かです。
たとえば、日本にも自衛隊がいるではありませんか。
これは大規模に人命を失うリスク(戦争)に対する備えで、そこ(自衛隊)で小規模に命が失われるリスクをゼロになど出来ないものでありましょう。国民のより多くの命を守るために、少数の命を失うことを許容しているのです。
それは当たり前のことであり、コロナウイルス対策においても同じことだと私は思います。
コロナにおいては、その「少数の命」を失うことを許容すれば、「全体的に社会的命」がより多くが救われるのです。
そういえば、ソ連が崩壊するまでの社会党という政治団体は、今でも残っていますが、そんな少数の命が失われるリスクもけしからんと言って、絶対平和で非武装であるべきだ、という主張をしていたものでした。
昨今の北朝鮮がミサイル実験をしたり、中国が尖閣諸島に侵入する構え見せたりするご時世からみると、誠に世間知らずな幼稚な考えですが、当時はそれが堂々と主張されていました。
結局は、いまの専門家がコロナについて言っていることは、この次元と同じだと私は感じます。
ノーベル賞受賞者が言うからそれに従った方がいい理由などありません。それは部分解です。社会に対する「点の解答」です。感染リスクゼロを目指したら、社会が死にます。私も民間企業に勤めておりますので、それをひしひしと感じます。
残念なことに、このコロナの状況下において、老い先短い人たちを主とした死亡を一人たりとも許容しようとしない施策は、生産的な若い人たちに対して、諸所の活動を押さえ込んでしまい、収入をはじめとした巨大なダメージを与えています。これが全体として見るといかに残酷なことか。
老い先短い人たちの死を最低限に抑えながら、若い人たち全体を救う方が、追求すべき姿だと思います。
しかも自粛要請を受け入れずに外出しているのは、なんと中高年から上の世代というニュースが出ているのではたまったものではありません。
メンバーの西浦博北海道大教授(感染症疫学)は「平日の減少幅が休日よりも少なく、若者に比べて中高年の減少率が低かった」と分析する。若者は大学などの休校が大きく影響し、中高年はテレワークの普及が限定的なのが理由とみている。
各地の主要駅の減少率は横浜駅で37~44%、大阪・難波駅が29~44%、神戸・三ノ宮駅で35~44%、福岡・天神駅では32~43%にとどまった。都内の繁華街では、休日の銀座や夜の渋谷駅前で80%程度かそれ以上と大きく減少。浅草・雷門や新宿二丁目、六本木は50%前後、高齢者に人気の巣鴨地蔵通り商店街は3~15%だった。
接触8割減、厳しい現実(中日新聞 2020年5月2日)
2つの極のあいだで暫定解を模索できないなら、段階的自粛解除もなかなか出来ないだろう
私の考えは、「3密をつくらない範囲において活動を許容すべし」です。
なぜなら、目的は「3密をつくらなければ」いいからです。「時間帯と場所を適切に判断すれば」いいのです。
一旦は、各人に任せて、それで効果が出なければ厳しくしていけばいいと思います。
そしてこのように基準を厳しくしたり緩めたりしながら最適状態を求めて試行錯誤することは、今後の「段階的な活動再開」の準備にもつながっていきます。
そこで得られた結果が、すべて「段階的な活動再開」の基準値なり判断材料になるからです。
ゼロイチ的に一律に自粛していたら、その中間にあるべき判断材料を収集することすらできません。
そうなると、きっと「段階的な活動再開」をしようとするタイミングで、「再流行の可能性がゼロではないからやめるべき」という意見が出てくると思います。
そしてその意見を落ち着かせる場所を見つけることもできず、「再開」すれば上記のような批判が一方から出て、「自粛継続」すれば他方から批判が出て、
この国・国民は、いつものごとく、リスクを許容しながら物事を漸進させるという大人の態度を身につけることができぬまま終わるのです。
もし自粛が継続された場合に確実に言えることは、コロナ感染で死ぬよりも、実態としてはるかに多くの「社会的命の死」が待っているということです。