薄っぺらい人間関係に流通する 薄っぺらい年始の挨拶

2022年が明けて、これからいよいよ始動していくことになりますが、

年始の挨拶の「やり方」を見ていて思うことがあります。

30代も後半くらい以降のいい歳をして、年始の挨拶をペラペラのコミュニケーションで取ろうとする人が残念に思えてなりません。

人生40年 生きてきて、薄っぺらい人間関係にイチミリの価値もない。

薄っぺらい人間関係になど価値がないことを悟るために、薄っぺらい人間関係には 付き合う価値があるようなものだ。

その薄っぺらい人間関係のなかで流通するのが、薄っぺらいコミュニケーション。

悪貨は良貨を駆逐するの代表例でありましょう。

仕事の同僚は勘違いしやすいペラペラ関係

ちなみに、仕事の同僚という関係こそ、いちばん勘違いしやすい薄っぺらい人間関係で、深くも何ともない。

人間関係を近づけるか遠ざけるかは、精神的・物理的な共通項の多さで決まる。

仕事の同僚は、物理的に同じ場所にいる時間が長くて、そして、共通の目標があるので精神的に共通項があるように見えるだけ。

これを深い人間関係のように錯覚してしまう。

が、これが錯覚であることは、転職をしたことがある人間であれば殆ど自明でありましょう。

人間関係は、殆ど残りません。ゼロの方が多いくらいでしょう。

だから残る人間関係だけを大事にすればよい。ただ、これが誰であるかは在籍中には分かりようがない。結果でしか分からない。

どちらかというと、人為的に可能になるというのではなく、ご縁のみが可能にする範疇な気がする。

ちなみに、この記事を書こうと思ったのは、仕事の同僚が、この元旦に会社のSlackで「あけましておめでとう」とか投稿していて、それに付き合いで反応しているやり取りを目にして、言いようのない軽薄さを感じたからだ。

丁寧でないものに 心は動かない。手軽に結べる人間関係に信頼は育たない

そろそろ ITのコミュニケーションサービスの「手軽さ」によって得られるものと失われるものを総括して位置づけにいってもいいんじゃないかと思う。

あるいは、浅い人間関係と、深い人間関係についてちゃんと考えた方がいいのだと思う。

浅いと深いを分けるものは「信頼」だと思うが、

人から信頼を得るとは何か?どうすればいいか?

そういうことをちゃんと考えて立ち居振る舞いをしないと、信頼関係は成立しない。

そして人間は、人間同士の関係性のなかにどっぷり居て、信頼の有無・濃淡によって、幸せ不幸せが ほとんど決まってきているようなものだ。

人間同士の関係性のなかに居なくても大丈夫とか言ってる人は精神年齢が低すぎる。両親の庇護のもとで、衣食住がタダだと思っているのに似ている。幼稚だ。

自分の境遇を社会のせいにして文句を言ってられるような精神年齢たちは気づかないだろうが、

ある一定の生活水準にあって自分の至らなさが目につく精神年齢の人にとっては、信頼できる人間関係は、限りなく得難いことに気づくことでありましょう。

そしてまた、そういった人間関係が、生きていく上で、ほとんど一切を左右する、ということも気づくことでありましょう。

記憶の糸「年始のあいさつ」を「儀礼へのこだわり」と呼ぶなかれ、日経新聞

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