記憶の糸

この季節になると、新卒採用の記事をよく目にするようになります。

その中で、最近多く目にしたのが、仕事内容と希望のミスマッチで、中小企業における新卒採用がうまくいかないというものでした。

これ、いちど社会的に広くちゃんと議論をした方がいいと思います。

新卒の意識が、ただ「そうなってきているのだ」、と片付けてはいけないと思います。

なぜなら、この状況を生み出したのは、まぎれもなく大企業と、就職を強みとする大学群だからです。

好景気・不景気で企業は言いたい放題

サブプライムローン問題が顕在化する前の好景気時に、大企業は、専門性を持った人材を求めるということを広く言っていました。

「バブル期は学歴さえ持っていればよかった。が、これからはそうではない。」ということを声高に言っていたのを記憶しています。

この産業界からの要請に応えたのが、就職を強みとする大学です。

そしてそれが学生の意識に影響を与えたのは言うまでもありません。

学生にしてみれば、当然、こうした状況下では就職に有利になるように専門性を身につけましょうということになる。

そして専門性を身につけるということは、極論すると、それ以外の分野をある程度捨てることを意味する。ゆえに「自分の専門」が活きないところへは行きたくない、ということになるのでしょう。

であれば、専門性を活かして就職をするなら、応募が集中するのは、豊富な専門部門を持っていて、かつ、その知名度を通じてそのことを広く知らせることができる大企業であり、それができない中小企業への応募が減るのは自明といえます。

よって、今のような状況が問題ありとするならば、

その状況を作り出したのは、大企業の責任がかなりあると思います。

そして当の大企業は、今となっては専門性×即戦力ということで、もはや専門分野を新卒には期待せず、その労働力を中途市場で調達している。

散々に、国内の新卒雇用市場を自分たちに合わせようとしておきながら、ひとたび状況が変われば、専門分野で即戦力のある中途採用に方針転換するというのでは、社会に対してあまりも無責任だと思います。

こうした状況にならないために

ではこうした状況にならないために、大企業は、リーマンショック前のあのときから、昔と変わらぬ(隠然と学歴)採用を言っていればよかったのか。

そうではないと思います。

IT化による産業構造の転換や、規制緩和による海外との競争を戦っていくためには、学歴だけで集まる学生では、質的に不足していたことでしょう。

また、以前から既に、学歴偏重採用では、勉学や鍛錬を怠った人材が、公平に選抜されることなく企業に流入してしまうのは、やはり問題視されていたことと思います。

だからソニーの創業者、故盛田昭夫氏は『学歴無用論』という書で、その状況を批判してみせたりしたのではないか。

が、学歴に「取って代わる」ものとして「専門分野」を持ってくるべきではなかったのだと思います。

(「専門分野」への礼賛は、確かアメリカから入ってきて、ゼネラリストではスペシャリストに歯が立たない、といったような意見が蔓延していたと記憶しています)

その時から、そして今も、更には昔からも言われていたように、人間としての「総合力」 ― 志・体力・思考力・学習力・忍耐力・協調性・自立性・知識 ― プラス「専門分野」を謳うべきだったのではないかと思います。

なぜなら、ある人が、ひとつの専門分野を持っているということは、まずは物事の見方や分析の方法の基礎を経験していると、一応見なすことができると思います。

そうであれば、企業が求める専門性を身につけてもらう下地は、十二分に整っているといえます。

なにしろ、外部環境の変化に適応していかなければならない企業にとっては、極端に言えば、昨日の専門分野を明日にも捨てる決断を迫られないとも限らないわけです。

だからひとつの専門分野を持っている人材よりも、専門性を身につけ得る素養があり、かつ、ハードな労働環境で活躍できる人材、つまりは総合力+専門分野を持っている人間を、求める人材の理想像に掲げればよかったのではないかと思います。

専門分野さえ持っていればいい、という人間像ではなくて。

「産業界」のみでは時代の流れに逆らえない

が、そのような「専門性」偏重に対する待ったを、当時の誰が言えたのか。

「産業界」からは不可能だと思います。「専門性」を求める空気を撒き散らした張本人だからです。そして「政治」もいまや経済と離れらない関係にあるから、ここからも不可能だと思います。

できるとすればそれは「学者」だと思います。しかも経済学・経営学の、ではありません。社会学や歴史学や哲学の、です。

そういう、人類の活動の変化を長期間にわたり俯瞰し研究している人たちこそ、唯一、「ある状況」を「過去」との比較の上で、「待った」をかけ得る勢力なのではないかと思います。

たとえば、明治~大正~昭和の産業方面で著名な人たちの著作を読んでみれば、その人たちが、専門家などではありはせず、歴史的知識や古典の素養のいかに広い人物であったかを知ることができます。

澁澤栄一・小林一三・盛田昭夫。

ここでは実業家を挙げましたが、こうした人物の、当時におかれた社会状況とその考え方とを照合してみれば、目まぐるしく変化する状況のなかでも、産業人として求めるべき資質は何であるかを示すことはできたのではないかと思います。

そして、ある「状況」と、その状況に対する「待った」の意見の往復のなかで、それらを克服しえる「指針」なり「人物像」なりを提示していくことができたのではないか。

そういうことを、学者であれば研究しており、豊富な歴史的事実や社会的事例に基づいて、意見を提出できるのではないかと(希望として)思います。

そういったところから生まれる「指針」が提示されていれば、それを受け取る大学側の教育も、専門性がありつつも、それとは異なる価値の育成にも重点が置かれたのではないか。

そうであれば、今のように「ある時点での必要性」に応えようとしたがゆえに、その「必要性」が変化したり明確でなかったりすれば身動きのとれなくなる新卒を、大量に作り出すことは抑えることができたのではないか。

もっと柔軟に産業界の入り口を探す社会状況であったことだろうと推測します。

日本は相互批判によって発展する形式が成立しないお国柄

近年は、食えなくなったらどうするんだ式の論理で、経済絶対主義の只中にいると思います。

多くのことがなし崩し的に、経済的価値に換算される。

個人にとって疑いようのない価値である「健康」を前に、トマトブームやインフルエンザ騒動で個人は振り回されるが、

企業もまた、彼らにとって疑いようのない価値である「経済的価値」の前に、グローバリズムや貿易機構(TPP)に振り回されていると言える。

そして企業が振り回されれば、そこへの人材供給源である大学もまた振り回され、当然その混乱は個人にも波及し、社会全体が振り回されているように思える。

この混乱のただ中で静止できる人、そういう人たちの勢力の状況批判を、社会の表面で拡大しなければ、今後も、その時々の必要性が、その後に多くの社会問題を引き起こすことになるのではないかと思う。

そうならないためには、「現実を推進する実体」と、それに「待った」をかける考え方や意見が、相互に批判しあいながら、全体としてはそのバランスの中で着実に課題解決に向けて前進している、という状況を作り出すべきだと思う。

そんな社会状態になればよいのに、と、新卒雇用の問題から思う今日この頃でした。

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