ルサンチマンを抑制する社会的価値観が必要 ※安倍元首相の死に寄せて

2022年7月8日、安倍元首相が選挙応援演説中に、銃で襲撃され殺害されました。

この犯人は、山上徹也(41)という人物で、人物の情報がチラホラ出てきていますが、まとめるとこのような感じです。

・県内の進学校にいた
大学にも進学できた ← ガセ情報
・母親が宗教(統一教会)にのめり込んで献金で金を使い果たした
・大学に進学できなかった
・職には就いたがどれも長続きしなかった
・今は無職

この経歴からすると、高校までは悪くない。高校卒業あたりで、家庭の事情で生活がめちゃくちゃになり、その後の人生は暗鬱たるものという感じでしょう。

そして、その恨みが向かった先が、母親の献金先である宗教団体を生かした安倍さんだった、ということに、今時点ではなっています。

「自分の生活が悪いのは 宗教のせい」 → 「宗教と繋がりのある政治家のせい」という怨恨感情

本人の供述どおりを受け取ると、自分の生活がめちゃくちゃになったロジック展開は、

「自分の人生がめちゃくちゃになったのは母親が金を使い果たしたから」
→「母親がそうなったのは宗教のせい」
→「その宗教を生かしている政治家のせい」となっているようですが、

普通の感覚なら、それは宗教に生活のお金をすべてつぎ込んだ「母親のせい」です。

それが、身内のことは棚にあげて、悪いのが宗教・政治となっていくのは、いわゆる、自分の境遇を誰かのせいにしたい、怨恨感情のメンタリティです。

ちなみにこの感情は、ルサンチマンと言います。

これは誰しも大なり小なり持っていますが、要は今の自分がそうなのは、誰かのせい、となるわけです。

とはいえ、境遇だけで言えば、同じような境遇の人などもっといるはずで、私が知っている範囲だと、若林史江さんというトレーダーは、父親の会社が倒産して大学進学も全部諦めたけど、その後の人生を自ら切り拓いていっています。

だから、山上徹也という人がそうなったのは、「誰か」のせいではなく、それを本人がどう受け止めて、自分の行動を採ったかによるのみです。

この紹介したトレーダーだって、父親の会社を倒産に追い込んだ「何かのせい」にしていくことは普通にあり得るわけで、彼女はそうしなかった。

ということは、不運な境遇にあったとしても、今の自分は「すべて自分のせい」という自己責任論は言わないまでも、逆に見れば、「すべて誰かのせい」はありえないでしょう。

ただ、心底そう思うのがルサンチマンという感情です。

すべての経済的弱者を救う政治は不可能という真理

ちなみにルサンチマンを抱きやすいのは経済的弱者です。

では、このようなルサンチマンを抱きやすい「誰かのせいにしたがる経済的弱者」が居なくなるように社会構造を変えた方がいいのか、というと、

それは理念の世界でのみ存在し得ることです。現実の世界ではありえません。

ちなみに、この理念の世界を現実化させようとしたのが共産主義思想です。左翼思想とか言われるそれです。世界史上最大の虐殺数を誇るカルト思想です。

この思想は幼稚です。

人類の歴史を見れば、どんな社会構造であれ、社会のメインストリートから脱落する人は出るのです。

その事実を受け入れたうえで出来ることを模索するのではなく、人間の良き面だけを見て、ロジカルに世界を塗りつぶそうとするからです。

こういうのは、「一面的なものの見方を全体に押し広げる」というものの見方です。

これは、環境活動家のグレタさんや、きゃりーぱみゅぱみゅさんや、小泉今日子さんらも同じです。

上記の人たちが何を発言したかは、こちらの記事にまとめていますが、
記憶の糸芸能人が政治的発言をすると嫌悪感を抱く理由

要は、圧倒的に教養が足りてない脳に、一面的なものの見方を入れると、それを信じてしまう人たちは、人間社会には常に一定数いるということです。

※※※

話が反れましたが、そんなわけで「社会のすべての人の不遇」を救うのは不可能です。

今回の事件で、今後同じような事件が起きないために、犯人の境遇を見て、経済的弱者の救済的なことを言っている人を見かけましたが、本質的ではありません。

社会は常にある一定数の経済的弱者を生み出し続けるということです。

それを人為的に解決しにいこうとするとおかしなことになります。

そのちょうどよい事例は、カンボジアのポル・ポトが掲げた原始共産社会です。

結局は、自国民の大量殺戮につながりました。

誰かのせいでも自分のせいでもない。分相応でよしとする価値観が大事

そんなことで、私はどういう社会状態がいいのだろうか、と思うのですが、

それは「分相応」の価値観が浸透している社会状態がよりルサンチマンを抑制できるのではないかと思います。

貧乏でもいい。人の幸せは、金銭の多寡のみにあるわけではないはずです。

金があれば幸せになれるわけではないが、金があることが幸せの前提条件、という「金の多寡」による価値観を深く疑ってみることです。

私はこう思います。

誰かに必要とされることを実感し、自分の為したことが、誰かに感謝される関係性のなかにいることが幸せなのだと思います。

これは社会のどんな階層でも成立し得ることであり、このなかにこそ分相応で十分という価値観が潜んでいると思います。

ちなみに、福澤諭吉が『学問のすすめ』のなかで言っているのもそのようなことです。

記憶の糸『学問のすすめ』の骨子を捉えなおす

が、いまの社会は、生まれてから大学までの教育もずっと、偏差値という一つの尺度で測られ、

社会に出てからもずっと年収という尺度で測られ、

それをインターネットやテレビといったメディアが、「低い」人たちの恨みを煽るような情報を流し続ける。

こうした社会状態のなかにあっては、特に貧困層は常に誰かへの恨み(ルサンチマン)を持ちやすい環境であり続けることでしょう。

※※※

ちなみに言うまでもなく、その逆によるやり方もあると思います。

極端に言ってみれば、そのような弱者集団を隔離して、外国でいうところのスラムを作って、そこに閉じ込めておくやり方です。

ただこれは、私の自然の感情からすると、すべきでは無いとも思います。

故に、社会的な価値観の変化による状況変化を期待するものであります。

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