記憶の糸

首都圏の人身事故が起こるたびに、よくTwitter上では、「野次馬的な人の気が知れない」という投稿がなされる。

なるほど、自分としても飛び散った死体など誰が見たいものか。もし人身事故の現場に居合わせたなら、絶対に死体は見ないと思う。トラウマになるから。

が、この意見は人間の本性を表してはいないというのが事実。

歴史的に見れば、「公開処刑」なるものがいかに多くの人を惹きつけてきたか。

イギリス・フランスしかり、日本もまたしかり。死体は好奇心の的なのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E9%96%8B%E5%87%A6%E5%88%91

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で、何が言いたいか。

今の普通の感覚では信じられないことが真実だったりするということ。

それでは原発保有の目的について。

これは、電力供給のみが目的ではない。

原発保有、すなわち潜在的核保有国であることによる、国際政治上での地位の確保ということもまた、目的のひとつであるということ。

このことを、とんでもないと思われるかもしれない。

が、戦後の外交文書を整理すれば、この目的はまぎれもない事実。

一般的に世間に広まっている感覚は時代とともに変わる。

が、高度な政治判断は、一般的な感情を基礎にしていない。そして、為政者はそのことを押さえておくべきなのだと思う。

せめて、第二次世界大戦直後、貧困国であった中国が、何ゆえに人民の生活を犠牲にしてでも核保有を優先したかという事実が、このことの理解の一助になればと思う。

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たしかに「電力供給」のみを目的と見た場合、原発廃止ないしは縮小は、まったくもって正しいと思う。

ただ、上記のような、国際政治ならびに、世界のバランスオブパワーの中での地位の確保という目的を知れば、原子力の保有を放棄するということは、いかにありえないことかが理解できる。

つまりは、自らの防御手段のひとつを放棄すると言っているに等しい。

これは国際政治上では有り得ない判断のひとつである。

ちなみに、ドイツもそうではないか、という意見がすぐに出るが、ドイツの場合、報復核ミサイルの発射ボタンを押す権利をドイツ首相が握っている、という事実を忘れてはいけない。

そして、日本の首相にはそのボタンはない。

だからドイツと日本を同列に扱うことはできない。

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「安全な電力供給」ということをただ一つの目的として原発ゼロを言うことこそ、平和を維持する対価というものを真剣に考えてこなかった結果なのだろうと思う。

ゆえに、原発ゼロを表明したら、アメリカの知識人が「原発保有」の再考を日本に促しているという事実は、まさしくこのことを指していると言えるのだと思います。

『原発ゼロ、日本に再考促す 米CSIS所長  2012/9/12 20:52 日本経済新聞』
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1204L_S2A910C1FF2000/

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