安価なものに価値はない。Facebookというコミュニケーションもまた。

安いものは価値がない。

そんなことはユニクロを例にとれば一番分かりやすいのではないでしょうか。

なるほど、確かにインナーでは価値があるかもしれません。「機能的」なユニクロであればこそ。

が、アウターとしての価値はない。

「(大量生産ゆえに)他人とかぶる」「デザインが陳腐(シンプル・単調)」「流行もの(長く着れない)」というのがあるからです。

だから、「自分だけの服装」「自分だけのデザイン」「流行に左右されない自分だけのスタイル」といった、人の本当の満足を満たすことができない。

ユニクロによって得られるものは、

値段の割りには品質のいい「お得感」であり、「薄められたファッション」であり、食べ物にたとえると「マクドナルドハンバーガー」か「カレーライス」と言えましょう。

Facebookは安もの

そう考えると、コミュニケーションの領域においては、Facebookも同じです。

そもそもの話になりますが、

「自分だけの人間関係」「自分達だけの話題」「流行についての自分達の意見」、これらをお互いに話せる間柄であるとき、ひとはその人との関係を、特別な人間関係と見なして満足を得ます。

そしてその相手が、「親友」「恋人」「夫」「妻」「家族」という代名詞に当てはまる人でしょう。

これらの人たちが実際に会って話すとき、「自分だけの」「自分たちだけの」が見事に成立します。

しかしこれはFacebook上では成立しない。

なぜか。

それは「友達」という多数登録されている「他人の目線」とういものが、投稿者の「虚栄心」を刺激して、「独自性」というものを薄める方向に作用し、「万人受け」する要素を含ませることになるからです。

本来であれば、その当事者間でのみ共有できる「濃い」内容を、(「いいね」が欲しいから)万人に対しても共感が持てるように「薄めて」しまっていると言えましょう。

本当は、「濃い」内容であったればこそ、実はその「万人たち」も読みたいものだと思うのですが、、、

だからFacebookの投稿は、もはやその人ならではの内容というものは存在しない。逆に、LINEが流行っているのは、その「濃さ」の維持が可能だからでしょう。

今となってはFacebookはユニクロと同じです。「自分だけの…」が維持できず「薄められたコミュニケーション」しか成立しない場に成り果てました。

なにが言いたいかというと

私は、高級⇔低級、手間⇔手軽、満足⇔似非満足、を峻別しませんか、と言いたいです。

本当に大事なこと、自分の存在に関わるようなことは、存分に注力すべきです。

逆に、存分に注力しなければ得られないものこそが「本当に大事」なものでしょう。

人間は、それを得るために払った犠牲の多寡によってしか、得るものの尊さを感じることはできないのです。

尊いものが尊いのではなく、得がたきものが尊いのです。

友という例を考えてみましょう。ためしに社会人も数年たった人は振り返ってみるがいいと思います。

毎日を共に過ごす同僚がいれば、「元々の友」の存在も考えずに済むくらい毎日は充実していましょう。そしてひょっとするとその同僚こそが「友」に取って代われるとさえ思えるかもしれません。

が、結局は数年後、「友」はできぬまま、もしくは「集団としての友」しか存在せぬまま、周囲の環境が変わってしまえば、もはやその集団も解体します。

解体された集団のなかで、人間関係が続くことは殆どありません。

そして古き友をないがしろにしてきた結果、この友との関係はいつの間にか薄れ、

集団が解体されて「ひとり」になった時に、初めて「ひとりの友」を持つことの、言葉の本当の意味で「有り難さ」を心底味わうと言えましょう。

Facebookのつながりとは「手軽な代替品」でしかない

「悪貨は良貨を駆逐する」とは、いまほど当てはまることはないと思います。

あたかも満足を得ることができると思われるものが、本当の満足を駆逐していく。

そして残るものは、手軽に手に入る代替品。

そういう状況に人を追いやる可能性を、Facebookというツールは大いに孕んでいることを認識すべきだと思います。

だから、Facebookの「つながり」なるものは、所詮はその程度と位置づけることが大事だと思います。

Facebookが人間関係構築の先にあるのではない。人間関係が先にあって、Facebookはそれを補強する道具にすぎない。

その位置づけで使用されるかぎり、Facebookは有効なツールなのだと思います。

Facebookのおかげでコミュニケーションが復活した相手というのは、残念ながら、復活してもそれきりの場合が多いことでしょう。

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