Facebookは時間泥棒に成り下がった

いまさっきまでの時間を勉強にあてたらどれだけ有意義なことだろう。

そんな小さな後悔は、社会人であれば、毎週末、ひょっとしたら平日さえもあるのかもしれない。

昨今、この「いまさっきまでの時間」を埋めるのは、テレビやネット・ゲーム、なのだと思う。

そしてこれら、テレビやゲームの特徴を要約すれば、それは、

・飽きない

ということであり、時間泥棒と云われる理由は、

・ついついやってしまうが、得られるものが何もない

ということなのだと思う。

もちろん、実社会での人との関わりの中で、話題を提供してくれる、という価値はあるといえる。が、逆にいえば、そのレベルのものを時間泥棒というのであろう。

ところで、Facebookについては、今となっては「飽きない」が故に、ついついアクセスしてしまい、けっきょく時間潰しにしかならない、という状況になっていると言えそうである。

そして、他の時間泥棒が担っている役割の、「話題を提供してくれる」価値すら怪しいのではないかと思う。

なぜなら、やり取りされる情報は、自分⇔特定の個人であり、「友達」全体との関わりとなれば希薄。世間一般ともなれば言うまでもなく無関係。

だから、流行り廃り(テレビ・ネット上の)のように、それを普段の社交の場で、話題として取り上げることは不可能。

ならば自分⇔相手の密の濃い情報がやり取りされているのかといえばそうではない。

投稿内容はと言えば、Facebookは皆が見ている場である以上、「会話はその場に居合わせた人の最大公約数にしかならない」、という原則は不幸にも効いているのである。

だからこそ?

結果的に投稿内容は奇妙に薄められ、食事・お出かけ・子育て日記の域に収まりつつあるのだ。

個人同士間の密度の濃い対話が、外野から見ているだけで気づきがあったり楽しい、ということは、もはやないのである。

こうしてみれば、Facebookで投稿される内容は、それを読む個人の見聞を広めることもなければ、何らかの行動を促すこともない。

もちろん、サービスが登場した当初は、古い友人との再会・その友達グループならではの特徴的な投稿が面白い、という効用はあった。

が、今となっては、上述のごとく薄っぺらい内容の投稿しかないのであってみれば、テレビ・ネットサーフィン(例えば、Youtube)といった時間泥棒のひとつとなんら変わるところがなくなっていると言えるでしょう。

(同類であるmixiやLINEは、私がそれほど使用していないので言及は避けたいと思います)

Facebookで目にする情報は、個人を精神的・実際的に高めたり広げたり促したり、ということは、今となってはどうやらなさそうです。

こうした状況になってしまったFacebookに対しては、今後は使う時間を制限することに意を使っていった方がいいと思います。

Facebook時間は早晩、後悔の対象である「今さっきまでの時間」に含まれてくることになりましょう。

そして、そのことに気づいて既にFacebook利用を、制限ないしは限定し始めている人たちがいます。

これらの人たちが、その時間を勉学や読書・実際の社交に充て始めれば、そうでない人たちとは、やはり数年後に、多くの分野で差がついてしまうことになるでしょう。

そしてFacebookの利用制限をするにあたって気をつけるべきは、コミュニケーションの希薄が云われて久しい昨今に、このコミュニケーションツールの、あたかも社会的課題解決の一翼を担うかのごとく錯覚を煽るようなあらゆる言説に、耳を傾けるべきではないということだと思います。

おすすめの記事