記憶の糸

近所づきあいでも学校・会社でもいい、日常の中で「あいさつ」をしない人をどう思うか。

いうまでもなく、いかがわしい人、なにか精神的な欠陥のある人とみなし、近づくことはしないのではないかと思います。

逆に、「あいさつ」をしていたら、普段それほど密にコミュニケーションをとっていない人であっても、その「あいさつ」のお陰で、何かの折に話す機会ができたとき、まったく接点がない人よりは接しやすいのではないでしょうか。

また「あいさつ」の仕方にしても、「おはようございます」「おはよう」「おぅ」や、態度で「笑顔」「丁寧」「無表情」となれば、大きくその後の接し方というものに影響を及ぼすと思います。

また普段のよく接する人・知人だとして、その人の人格が悪くないことを知っていたとしても、あいさつをしない人となれば、やはり精神的な歪みを感じずにはいられないと思います。

そういう人とは形式的な枠組のなかでの付き合いはできても、信用を基盤とした付き合いには至りにくいと思います。

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以上は一日の中でのことになりますが、これを一年の中で、ということに拡大してみても同じことだと思います。

一日に一回会う人と、一年に一回会う人との違いでしかありません。

だから年始のあいさつをきっちりとするというのは、とりもなおさず、次に会ったときの人間関係において、信用の基盤は確認済みという状態から始められるのであり、人間関係・社会との関係においてはとても大事なことだと思います。

これを日経新聞は「日本人は相変わらず、年末年始の儀礼にこだわりを持っているようです」(http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0903G_Z01C12A1000000/)などと、さもたかが一手段に対するこだわりかのように捉えています。

一日のはじまりが「おはようございます」なら、一年のはじまりが「明けましておめでとうございます」をした方がいい・しなくてはいけない、と思うのは、社会的な生き物である我々においては、極めて正常な感覚であり、この正常な感覚を「こだわり」というのは、病的な機能主義・合理主義だと思います。

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人間は、社会的な生き物であり、社会に奉仕しつつ社会に支えられ、それを自分の身近な人との社交を通じて成立せしめていると思います。

なるほど、流行の「論理的思考」でいえば、あいさつはその社交を円滑にするための一手段であり、多数ある選択肢のなかのひとつにすぎないという捉え方はできなくもない。

が、「慣習とか伝統の感覚に従った判断」― 論理的思考にとっては意味を見出しにくい ― に偏るのが問題があるというならば、「論理」に従ってすべてを判断するというのも同じく偏っていて問題でありましょう。

なぜなら、日常生活を営んでいれば自明なことですが、「論理」というのも、人間生活・社会的活動のなかの判断基準の選択肢のひとつだからです。

このいくつかある選択肢のなかで、バランスをとりながら社会生活を営む感覚を「良識」と呼ぶなら、今回の日経の表現の底流には「良識」が欠けています。

私は、この社交の出発点である「あいさつ」をないがしろにするかのような表現に対して一言いっておきたいと思いました。

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