記憶の糸

「お客様は神様です」という言葉は、商売人にとっては真理です。なぜなら、お客様がいなければ、自分の生活が成り立たないからです。お客様があって、初めて自分が生活できるのだとすれば、それは「神様」と呼んでも良いかもしれません。

ただ、この言葉を突き詰めると、お客様の言いなりになっても文句が言えぬ、という状態になります。そしてこの状態は、日本人の普通の感覚からすると、違和感を覚えるのではないでしょうか。いや、間違っていると思うことでしょう。

私はもちろん間違っていると思います。

全体として見れば、社会の成員はそれぞれ相互に依存しながら生活を営んでいます。商売人がお客様によって支えられているなら、お客様はまた商売人の存在によって支えられているのです。

私はこのように、一方から見たときに正しいが、全体として見たら間違っている事柄については、その一方の論理のことを、「半面の真理」と呼んでいます。いや、真理は常に半面でしかない、というのが私の考えです。

私は人間社会は、常にこの二面性のバランスで成立していると思っています。何のことはない、よく言われるとおり、「答えはひとつではない」ということです。

ちなみに、全体的な見方でもって、「お客様は神様です」を論破することができるかというと、仮にできたとしても、そう主張する人を納得させることはできないと思っています。

お客様のおかげで商売人が直接的に「生かされている」という事実はゆるぎない事実で、その一点の論理的正しさを信じている人の心を動かすまでには至らないことでしょう。

というよりも、そうであるがゆえに「半面の真理」なのです。

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「自己責任」という言葉もこれと同じ類です。それは半面の真理ではあるけれども、それを「全体の答え」としてしまったら、どうも社会全体としてうまくいかなくなる。

リスクを伴う選択をしたのはその本人であることは間違いないが、いざリスクに晒されたら、その個人を成員とする社会は、救済に動かざるを得ない。

例えば、家の施錠を忘れていて強盗に入られたとして、「鍵をかけてなかった本人が悪いよね」という理屈で、その強盗犯に対して、警察もなにも動かないとしたら、そんな社会はもはや「社会」と呼べる代物ではありません。

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ちなみに、このエントリーを書こうと思ったきっかけは、ISISの人質事件があったからですが、私は、当人方を擁護するつもりは全くありません。

なぜなら外務省から何度も渡航制止要請があったにも関わらず、それでも渡航して人質になってしまったのだから。

そこまでして、危険を冒そうとする人を、社会は救済する必要があるのか。私はないと思います。ただ、公的機関の立場として、救済の動きを採らざるを得ない、できる範囲で。というのが私の見方です。

今回の事件で起きた内容は、「自己」という範疇を超えていました。というよりも、自分が決断したことについて、自分の責任で完結し得ると考えていた、当人の甘さがあると思います。

この甘さに対して、私は、「社会のなかで自分は自分ひとりで生きているのだ」という、いかにも戦後民主主義的なふやけた個人主義の匂いを私は嗅ぎ付けます。

このことについては、また別の機会でまとめたいと思います。

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少しISISの話にそれましたが、つまるところ、私が何を言いたいかというと、

今回の事件がどうこうというのではなくて、このような事件をサンプルとして、「自己責任」という言葉が濫用され、それが社会の他のいろんな分野に対して、無節操に拡大適用されていくことに対して警戒すべきで、

このような言語空間を放置すると、人間の社会に対する二面性が徐々に失われ、相互扶助とか相互信頼といった、そもそも社会を成立させている精神までも破壊し、この日本社会が非常に荒んだものになっていくのではないか。

ということです。

とてつもない大きな出来事によって、ある言葉や思考パターンが、あたかも普遍性を帯びて、社会に拡散していく、ということはよくあることです。

が、「自己責任」という言葉がそうなってしまわないことを切に願います。

※余談ですが、もともと「自己責任」という言葉は、金融方面の投資にまつわる言葉で、投資による損失はその人がすべて負う、とういものです。

言うまでもなく、投資ですから人命は関係ありませんし、破産したら、その後の法的手続きも整備されています。そして、破産した本人は、法的なペナルティを負って社会に復帰できます。

「自己責任」という言葉は、上記のような環境のうえに生きている言葉でしたが、気づいてみれば、既に元々の棲家から出てきてしまっていることは、認識として持っておいた方がいいと思います。

 

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