記憶の糸 人は束縛された方が幸せか

先日、知り合いの女性と飲む機会がありました。

その人と会社の愚痴から始まりあれこれ話しているうちに、自由は人を幸せにするのか、という話になりました。

で、その人は、自由は人を幸せにする。なぜなら自由は、いまの状態よりも一層幸せな状態を示してくれると同時に、その状態への権利を与えてくれると。

で、自分はというと、自由を人を不幸にする。自由は、束縛された状態から開放される過程でのみ意味を持つのであり、

束縛が開放された暁には、自由は、何をしてもいいが故に、もはや幸せの基準がなくなり、そのこと自体が「不幸せ」だ、という論理でした。

これに対して二人はいうまでもなく平行線であり、まぁ、平行線だから喧嘩するとかいうのではなく、それはそれという議論をするにあたって前提となるスタンスは持っています。

で、私は、上記は、「自由」と「束縛」というものがコインの裏表の関係にあるものなのだと思います。

「束縛」があるからこそ自由を感じることができるし、「自由」を味わえば、束縛がなければ成立しない社会や個人の生息する領域や境界を感じることもあるでしょう。

年功序列が厳然と社会にあれば、それを乗り越えて自分が何かを成し遂げれば快感を感じることもできる。

が、年功序列が完全に排された社会では、そこから親に対する感謝の念すら喪失し、波及してあらゆる秩序の崩壊が始まり、最後に拠るべき場所が法律しかない、というような寒々とした社会となるでしょう。

そしてそれに人は耐えられないということは、エーリック・フロムというドイツの社会学者が、著書『自由からの逃走』のなかで、ナチス・ドイツを題材にして論じております。

そして、過渡な自由の逆、つまりは束縛が行き過ぎた社会もまた、北朝鮮やソビエトや、共産主義諸国を見れば明らかなことかもしれません。

つまりどちらか一方の極端は、共に人を不幸せにするに違いなく、その絶妙なバランス(足して二で割るというものではなく)が、人を幸せにするのではないかと思います。

そしてその「バランス」のありかについては、ある意味では論理的には導けぬことは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の中に読み取ることができます。

こんなことを社会人になってから話す機会がまた来るとは思っても見ませんでしたが、久々に時間が経つのも忘れるような対話というものを経験しました。

おすすめの記事