朝にラジオを聞いていると、やたらと耳に障るというか、頭のなかにクシャクシャのちり紙を放り込まれているような感覚の音が流れてきた。
うるさい。
だけど、妻に言わせると、椎名林檎は2020東京オリンピックでの活躍などでスゴイということを言っていたので、なんか そうじゃないんだよなー、と改めて思う。
というわけで、芸術の領域では、最大多数にとって「良い」とされるものが、必ずしも「良い」わけではない、ということを、言葉に落としておきたいと思います。
多数から支持されていたらスゴイ(=イイ)ことなのか?
絵画の美術展でこの話を。
美術の教科書に出てくるような人たちの作品展にいくと、その絵がすごい(=いい)というところから入る人がいると思うが、
芸術とは作品が「観る人の感性」にどう触れるかで、どんな作品、たとえそれが世界的に有名でも、それらをすべて良い・おもしろいと感じる人は、実際はいないと思います。
もしそれがいるとすれば、それは自分で自分を騙している人、いいものを見せられると、自分は違うと思っても流されてしまう人。つまりは自分が無い人です。
私の例でいけば、私は荘厳な静寂な温和な端正な、人の心に平穏を投げかけてくれる絵画が好きです。
ガチャガチャしたり、人の心を不安にさせるような絵は好きではありません。
たとえば私が好きな絵は、
ラファエロ、フェルメール、アングル、デイビット、あたりの絵が好きです。
ルノワール、モネ、スーラは、晴れやかな気分になるので好きな方です。
しかしながら、ムンク、ゴッホ、ピカソ、あたりは嫌いです。見ていて暗くなります。というか、うるさいのです。
こうして絵を並べてみると、自分の嗜好性がよく分かります。
そして、私はそういう感性なのだと、自分で意識できるようになります。
自分の感性がある。それを大事にすべき。日本人は流されすぎ。
こういう意識で、美術館行きを繰り返し行っていると、自分の感性の輪郭はよりハッキリしてきます。
岡本太郎の作品なんて見るのも時間の無駄、となるわけです。
ちなみにこういう美意識は、仕事の仕方なんかにも全部出ます。
PowerPointの作図はもちろんのこと、システムの設計書だって、私のものは空白が多くてスッキリしていて見やすいと言ってもらったこともあります。
そうです。それでいいのです。自分は、そういう方向で突き詰めればいいのだと あるとき思ったものです。人の真似をする必要なんてない。
自分の感性を突き詰めて、それを「自分の現実」に翻訳することで、自分としての存在価値を出していく。
私は振り返ってみると、そうした精神的な経過をたどっていると確認できます。
スッキリした構成とゴチャゴチャした構成は人間の精神の二大要素
ここからは完全に雑学のお話となりますが、
このスッキリしたものとゴチャゴチャしたものというのは、昔から対立する「人間の精神の二極」です。
ニーチェの『悲劇の誕生』ではじめて定式化されたとも思いますが、このことをニーチェは「スッキリ=アポロ的」と「ゴチャゴチャ=デュオニュソス的」と呼びました。
アポロ的というのは、完全なる美。たとえるなら古代ギリシヤの彫刻のようなイメージです。見るものの心を鎮めるような効果のあるものです。
一方で、デュオニュソス的といのは、人間の活動意欲を掻き立てるもの、というイメージです。
ちなみに、「アポロ」と「デュオニュソス」は、ギリシア十二神のうちの二神です。
アポロは太陽神であり、デュオニュソスは酒神です。
つまり「酒」で代表されたり想起されるような効果があるもの、それがデュオニュソス的、ということです。
日本で言えば、たとえばお祭りなんてのはデュオニュソス的だと思いますし、神社の建造物なんてのはアポロ的だと思います。
伊勢丹三越の店作りはアポロ的に感じますが、阪急梅田本店の店作りはデュオニュソス的に感じます。
冒頭に戻るなら、椎名林檎の歌やピカソの絵なんかはデュオニュソス的なのだと思います。
そして私の感性・精神は、どちらかというとアポロ的な方なので、椎名林檎は好きになれない。
それもまた、人間のありのままの感性なので、優劣の問題ではないのです。
ただ、それを混濁して「有名であれば」すべて「イイ」と言ってしまう精神は、明らかに劣等な精神だと思います。
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