飲みニケーション無くなれば、日常のコミュニケーションの重要度が増すだけ。でも、それも出来ないよね。

コロナによる在宅ワークの社会的な広がりや、新規感染抑止で大人数での宴会は控えましょう、という流れから、飲みニケーションの是非が槍玉に挙がっている様子。

日刊スポーツ「飲みニケーション」の支持率急落 「気を使う」「仕事の延長と感じる」

「会社の飲み会なんて行きたくない」、全然別にそれが自然の感情だと思うのですけど、

飲みニケーションは、要はコミュニケーションの機会。

コミュニケーションが減るとどうなるか、というと、

それは既婚者ならほとんど身を持って知っているはず。

ちょっとのすれ違いが積もり積もって、決定的な不信感へとつながっていく。

会社という場におけるコミュニケーションも、その役割は夫婦間と変わらない。

まったく雑談みたいな機会がなくて、お互いの自己開示もなく、業務上の会話だけがされているところに、信頼感は醸成されにくい。

そしてちょっとした業務上のトラブルで、えらく遺恨を残すような事態になりやすい。

子育てをしていても、最もよくこのことを実感する。

育児を母親に任せきりだと、子供が父親に寄り付かない。

逆に、育児で子供に積極的に関わっていると「父ちゃん!」と言って寄ってくる。

これが人間関係のありのままの姿だと思う。

つまり、日頃の接点の多寡が、人間関係の信頼とか親みに、直接的に影響する。

このことは、たしか心理学的にも証明されていたと思う。

そうと知った時に、飲みニケーションがなくなれば、職場の人間関係において、そういう機会の一つが減る、ということでありましょう。

となると、それを埋めるのは日常におけるコミュニケーションしかなくなってくる。

もともとそれが下手で、集団のなかで追いやられている人にとってはどっちでもいいこと。

だけど、下手と上手の中間で右往左往している人たちにとって、そうした機会が減るのは少し勿体無いかな、と。

集団の中にいれば自然と身につけられることができなくなる

あとは、こういった場をこなすことで覚えることができる食事の作法とか、店員さんに対する丁寧な振る舞い方とか、こういったことは身につかなくなる。

ちなみにこういうことの積み重ねは、将来的にパートナーを見つけるときの食事などの機会でも出る。

まぁ、「嫌なこと」というなかにも、そのなかで「自然と得るもの」はあるのであって、

その「嫌」を取り除くと、「得るもの」も失われる。

「得る」ためには、意識的に「得に行く」ことをしなければならなくなる。

そしてそれにはカネがかかり、

そこにカネをかけない人は、かけた人とで、人間的な振る舞いは圧倒的に差がついて、

人生の岐路でいろいろとネガティブに作用するだろうな、ということくらいは、自覚しておいた方がいいと思います。

ちなみに私は、飲みニケーション的なものは、礼賛派ではなくて、ちゃんと評価したうえで行きたい派です。

なんでもかんでも「飲もう!」は、ただのアホだと思っていて、無駄な飲みニケーションは要らないと思っている側で、その立場表明はしておきたいと思います。

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