源頼朝に学ぶ ※目指したのは政治体制の変革による平和

ここでは、下記の2冊の吾妻鏡を読んで学んだことを記したいと思います。

時期としては、源頼朝が平家追討の旗揚げをして、壇ノ浦平家を滅ぼした直後までです。

ざっくり要約すると、

源頼朝は、
源氏の大将としての振る舞いをし、
論功行賞(目配り・気配り)をこなしつつ、
構想(平氏と源氏が争った根本原因を断つ)を練り、
物事を進めていった、という印象です。

一方で、源義経は、
平家追討で手柄を独り占めのようにしてしまい、
頼朝の構想を理解できず 朝廷から官位をもらい、
有頂天になって、
部下からも恨まれる、とうい典型的な嫌われるリーダーに陥ってしまった、という印象です。

ちなみに、源頼朝の構想について記しておきたいと思います。

頼朝の問いはこうです。

そもそも源氏と平氏が仲良かった時期もあれば、源氏同士が殺し合わなければならないこともあったが、それはなぜか?

というと、それは日本の政治組織構造として、朝廷は各武士とつながっており、その朝廷が、政争に武士の武力を利用してきたからであると捉えています。

よって、朝廷と各武士の間に1つの統治機構を噛ませて、朝廷から直接武士に指示を出せない構造(それが幕府)にすれば、源氏と平氏の争いもなくなるというものです。

ちなみに、源義経が、平氏追討後に 後白河上皇から官位をもらったのは 明らかにこの構想に反するもので、

こんな輩がいたら ~しかもそれが自分の弟で~ そのことを許容すると、他の武士の統制など取れはしない。故に、源義経を追悼する、という判断を下したことは容易に想像できます。

そんな要約がありながらも、個別具体的なところを記憶しておきたいと思います。

リーダーとして諂わない(源頼朝)

源頼朝が、平家追討の旗揚げをして、伊豆で初戦に負けて、兵士数百程度で千葉に逃れたとき、千葉の武士である上総広常が、万の大群を引き連れて源頼朝のところに駆けつけました。

このとき、頼朝は、遅れたことを叱りつけたようで、上総広常は、ここで媚び諂う態度をとったら、頼朝を切ろうと思っていたとのことでした。

が、叱りつけられたために、この人物は大人物であると見定めて従ったようです。(吾妻鏡にこの記述がありました)

ビジネスの現場でもそうですが、相手の力が強いからといって媚びへつらっていては、かえって信頼を得られないことがあるものです。

ただ、状況が状況だけに、それをやってしまえる胆力は凄いものがあると言えます。

恐らく、数多の危機に巡り合ってきた源頼朝からすると、自分の命・利益などは、不要であればいつでも天に持っていってもらえばいいという境地だったのではないかと思います。

もし、この世で果たすべき使命があるかぎり、自分は生かされるであろうと思っていたのではないでしょうか。

リーダーは目配り・気配りが必要(源頼朝)

平家追討軍が戦っている間も、源頼朝は、関東にあって、参加した武士たちの所領安堵などをずっとやっていた印象があります。

どこどこの領地で、狼藉を働く領主がいるから何とかしてほしい、というようなものも頼朝は裁いています。

総大将となれば、こういうところの目配り・気配りをしないと、武士たちの心を帰順させきることは出来なかったのではないかと思われます。

源頼朝もそのことが分かっていたから、そのような事務的なことにずっと時間を割いていたのではないでしょうか。

いまで言えば、部下の働きをちゃんと評価しないと、部下はついてこないということです。

ただ、ひとつ感じたのは、頼朝は、法を確立してそれに従って評価したのではなく、どちらかという頼朝個人の判断といった感じです。

なので、これは韓非子風に言うと、領土が広がってくると統制が取れなくなる、とも言えましょう。

また、不公平による恨みを買う温床にもなると思われました。

平氏追討後に有頂天になった小物(源義経)

壇ノ浦の合戦直後の、源義経の振る舞いは、平氏追討は自分だけの手柄であるように振る舞い、御家人たちの存在をないがしろにしていたようで、そのことを、鎌倉に報告されています。

また、京都に入った関東武士のうち、朝廷から直接に官位を受けた者は、勝者にありがちな傲慢に陥っており、京都周辺の武士たちにぞんざいな命令を出していたようです。つまりは統制が殆どとれていなかったのです。

ちなみにこの後、鎌倉に帰ろうとする義経に、頼朝から「鎌倉に入るな」と言われたとき、自分の現状の釈明となる書状を送っているのですが、これを要約すると以下のような内容です。

「自分は讒言されている。自分ほど源家に対して貢献しているのに何故兄上は許してくれないのか」

が、頼朝の平氏追討後に構想した社会のあり方として、「朝廷と武家が直接つながっていること」を改革すること、であったことを見れば、

これこそが、義経が何もわかっていないことを証明しており、それを無理解によって破った義経には救いようがなかったと言えましょう。

また、中国の兵法書でもよく述べられていることですが、「軍律を守るためには親兄弟であっても罰しなければならない」のであるから、義経に同情する余地はありません。

源義経は「戦闘行為」で有頂天になる小物だったといことです。

統制をとるためには指揮系統にこだわらなければならない

源義経が平家を追討してから京都にいる間に、源頼朝は「義経の命に従ってはならない」という宣旨を出しています。

これなどは、普段の会社でのプロジェクトなどを見ていても分かることですが、責任の所在や 指揮系統が出鱈目のために起きる混乱を防ごうとしているものであると思います。

会社でもいると思います。まるでチームの統制を取らずに、なるように任せていて、現場がぐちゃぐちゃになっても、為す術を知らない責任者を。

はい、そんなわけで、源平の合戦の裏には、源頼朝の政治構想があり、それがこれまで起きてきた争乱の根本解決と見定めていて、それを理解できなかった義経は、ただの戦争バカということが分かった『吾妻鏡(1)(2)』でした。

転じて、いつの時代も、自分がやっている個別具体的なことが、全体のどこに位置づけられているかを理解しないままに行動すると、たちどころに追放される、ということを学びました。

ここからは、幕府成立に向けた、頼朝と朝廷の政治交渉のフェーズに移っていきますので、そこからまた学びを得ていきたいと思います。

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