社会人になって課長職(マネージャー)になってから、間接的に人を動かすにはどうすればいいか、という悩みのもと、
鎌倉からほとんど動かずに幕府を打ち立てた源頼朝に学びたいと思い、山岡荘八の本(源頼朝1巻〜3巻)を読み始めました。
読み終わってみて、結果的にこのシーリズものでは、「間接的に人を動かす」ところまでには話しが進まずに完結してしまいます。
ちょっと残念でしたが、こうなったら「間接的に人を動かす」頼朝を知るべく、『吾妻鏡』をこれから続けて読んでいこうと思います。
が、ひとまずは、第1巻の学びを記したので、
第1巻の学び源頼朝、この修羅場を経験した人
2巻3巻でも、学び得たことを記載しておこうと思います。
【第2巻】伊豆での雌伏のときに源頼朝は何をしていたか
第2巻では、伊豆に流されてから挙兵直前までのことが書かれています。
ここでも、頼朝の修羅場その2を知ることができます。
それは、頼朝の監視役である伊東家の姫とのあいだの初めての子が、生まれて3歳のときに殺されてしまいます。
理由は、京都から戻ってきた伊東家の当主が、自分の娘が源頼朝との間に子供つくったことで、平清盛に謀反の疑いをかけられると思ったためです。
なので、その当主(伊東入道)は、伊豆に帰ってきたその日に、頼朝の子供を、重りをつけて河に放り投げて殺してしまいました。
私も、2歳半の子供がいるのですが、まさにカワイイときに、或る日突然、殺されたとしたらどれだけ精神的に辛いか分かりません。
源頼朝は、自分の親を殺され、息子も殺され、そしてその両人の死んだ姿を直接見るという経験をしているわけで、恐ろしい精神的修羅場を経験したと思われます。
それから、この期間は、14歳のときに流されて32歳までの期間で、つまりは18年間となりますが、
この間に、お寺の和尚から仏のことを学んでいたそうなので、この間に学問をかなり積んだのではないかと思います。
やはり、「修羅場」と「学問」というのは人物を大きくするためには必要なことなのだろうと思いました。
【第3巻】挙兵の覚悟、そして真の目的を見つけて動き出す
第3巻では、頼朝朝が伊豆で北条政子と結婚したあたりから、以仁王の令旨〜頼朝の挙兵〜石橋山での敗北〜房総半島に渡り〜平清盛の死〜木曽義仲が討たれるところまでとなります。
ここでの学びは以下のようなものです。
- 大事をなすに、一度決心するとわき目もふらぬ鉄壁の意志
- どのような大事にも万全のときなどない。すべては覚悟次第
これは頼朝の挙兵直後の「石橋山の戦い」あたりですが、頼朝は、軍勢が揃わないうちに平家方と戦になり敗北します。
並みの人であれば、ここで幸先悪しとして止めてしまったりすると思われますが、源頼朝は「神仏が自分に与えた試練」ということで、いよいよ突き進む意志を固めていきます。
- 平清盛の死によりすぐに出撃しようとせずに、自然と瓦解していくのを見守った
それからここなどは、大いに学ぶべきことだと思いますが、
敵の総大将である平清盛が死んだら、すぐに攻めたくなるものです。
が、源頼朝は、平清盛以外に平家をまとめられる者なし、ゆえに待てば待つほど内部崩壊を起こすであろうという読みで、時間的な余裕を見出しましました。
「であるならば」ということで、まだ盤石ではない足元(関東)固めに時間を割きました。
そしていざ平家と衝突する頃は、すでに弱ったあとの平家というわけです。
こういう判断は、大局観といいますか、仕事などで選択と集中を判断するときなどには、重要となるものの見方ではないかと思いました。
- 平家追討後の最終着地点はなにか?を問い続ける姿勢
そしてここが私が学んだ最大の点だったのですが、
本を読んでいると、源頼朝の挙兵の最終着地点は、仇討ちとして平家を追討することではありませんでした。
平家追討はもう当たり前のことになっていて、その後をどうするか、そもそもこのような状況になっている根本原因はなにか、ということを源頼朝は考えていたようです。
で、それは日本の朝廷の組織構造の改革なしには、また同じことが起きると結論づけたようです。
「また同じこと」とは何かというと、朝廷(当時:後白河上皇)が、直接武家を利用(追討令の乱発)できることです。
これがある限り、その時々で朝廷が気に入らない人物に対して、「勅命」や「令旨」という形で、武家(武力)を利用して、お互いに戦をさせるという悲劇がいつまで経っても収束しない、と考えたようです。
ゆえに、「朝廷」ー「各地の武士」 という組織構造を、「朝廷」ー「源頼朝」ー「各地の武士」という構造に変革しようと構想したようです。
なるほど、これなどは私の普段の仕事でも思い当たることがあります。
私はプロジェクトマネージャーもよくするのですが、仕様は「誰が決めるのか」、プロジェクトメンバーには誰が指示を出すのか、といった構造をハッキリさせておかないと、あとで大混乱になることはよくある話しです。
プロジェクトの外にいる人(部長や課長)が勝手に仕様を決めて、メンバーに指示を出しては混乱あるのみなのです。
あくまで、外にいる人に決めてもらうにしても、その権限と責任は、プロジェクトマネージャーが持たなければ、プロジェクトチームが瓦解していきます。
こうしたことを国家レベルでやっていこうとしたのが源頼朝なのだなぁ、という印象があり、それを鎌倉に居ながらにして、実際にどのようにやっていったのかはますます興味が出てきました。
よって、この山岡荘八の小説を読み終えたので、次は鎌倉幕府が編集した歴史書である『吾妻鏡』を本格的に読んでいきたいと思いました。