記憶の糸

こんなニュースがありました。

『檀家は顧客…東大卒のMBA僧侶が説く寺の経営』

さて、自分が宗教に関わってきた生活シーンを想像してみます。

冠婚葬祭が代表的ですが、結婚式・葬式・祭りといったことがそれに当たると思います。

また年始の初詣や、何か困難なことに立ち向かうときに、成功を神社や寺で祈願するといった行為も、宗教との関わりだと言えるでしょう。

こういったことをひっくるめると要は、宗教とは我々にとって何を意味しているのでしょうか。

・結婚に関していえば、この移ろいやすい世俗の約束事(結婚)を、普遍の存在である神仏に対して誓うのであり、

・葬式に関していえば、どうしようもない悲しみに、存分に悲しめる形式(儀式)を提供すると同時に、生き残った側を慰めるのであり、

・祭りに関していえば、祭りの起源である四季の移り変わりの営みに対する感謝を、地元の神様にするのであり、

・初詣/祈願に関していえば、自分の時間軸の節目々々に、その気持ちに区切りをつけ新たにすることを、世俗を超越した神仏に誓っているのでありましょう。

つまり、人事を尽くせる(自身でコントロールできる)領域から一歩踏み出した領域において、

自身を勇気づけたり、自身を救い出したりしてくれるといった、精神的な作用を求め、

それを受け入れてくれる存在として、我々は宗教と関わっているのだと思います。

その宗教が、信者(檀家)に対して、それを「顧客」と見立てて、何かサービスをしようと乗り出してくるとき、果たしてそれは「精神的な作用」を満たすものであり続けることができるかどうか、私は疑問に思います。

檀家を「顧客」に見立てるということは、「顧客」という言葉が自体が、商売用語なのであってみれば、寺はサービスを提供することで、その見返りとして金銭を貰うことになります。

そうであってみれば、サービスの対象は、言うまでもなく、信者の現世における欲求を満たすものでしか有り得ず、ご利益のある壺か、さもなくば有難い説法か、さらには、自己啓発セミナー的なものにさえなるかもしれず、

そうなればもはや、宗教と呼べる代物ではなくなり、ただの課題解決策を提供する機関になりさがっていくことになると思います。

それはつまり、世俗と一線を引いた存在であるが故に、我々に心の作用を受け入れてくれる「宗教」という存在から、脱落するということを意味しましょう。

そしてこれは、冒頭に書いたような、我々と宗教のゆるやかな関わりさえ破壊することになると思います。

理由は簡単です。現世のことに直接的に助言して、その結果がハッキリしてしまえば、失敗すれば、もはや誰も信じないのは自明だからです。

ちなみに、いまの神仏がそうならないのは、現世とは一線を引いた立場であるため、助言の責任は現世にはなく、あくまで祈ったり誓ったりする本人に帰着するように構造的になっているためです。

※※※

もともと宗教は、その発生においては世俗からは独立しつつ、政治・経済と相互依存において発展してきたと言えると思います。

(もちろん、世俗権力との癒着・分離を繰り返し、その周辺では血なまぐさいことが多発しながらも、という注釈がつきますが。)

この3つは、お互いに重複する部分がありつつも、それぞれが異なる価値観で独自の地位にあるからこそ、お互いが頼りにし得たのだと思います。

つまりは宗教は、他から分離しておくことで、はじめて価値を発揮する、と言えると思います。

が、ニュース記事からすると、宗教にいかにも経済寄りの思考を適用しようとしていると思います。

そうすることによって、その独自の価値観を崩壊させてしまわないか。そう危惧する理由は、これまでに述べてきたとおりです。

あらゆる営みを企業活動に置き換えて、経営手法を味噌にも糞にも適用するかもしれないMBAホルダーのこのお坊様が、宗教を台無しにしないことを願います。

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