記憶の糸

前回に書いたブログのなかで、人と宗教の関わりを以下のようにまとめてみました。

人事を尽くせる(自身でコントロールできる)領域から一歩踏み出した領域において、

自身を勇気づけたり、自身を救い出したりしてくれるといった、精神的な作用を求め、

それを受け入れてくれる存在として、我々は宗教と関わっているのだと思います。

前回ブログ宗教がビジネス思考で台無しにならないことを願います

自分で書いていて思ったのですが、新興宗教がよくやるような、「幸せになる」具体的な行動指針を信者に示し、それに従う者が救われるというやり方は、

上で述べたような宗教との関わり方になぞらえてみれば、基本的な構造は全く同じなのだと思いました。

なぜなら、自身でコントロールできる範囲の線引きがどこかという問題になっているからです。

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私自身が、大学時代に新興宗教にもぐり込んだときの体験から言えることは、

新興宗教の信者は、社会的な行動のなかに、不運にも自らがコントロールできる領域が、通常の人よりも狭い方々が多いようでした。

社会(家族・学校・会社等)で人とうまく付き合えない、といった悩みが入信のきっかけである方が多かったと記憶していますが、その宗教は、家族を大事にすれば「運」が好転するという考え方を中心に、日々の行動に具体的な指針を与えていたように思います。

そして信者は、実際にその指針に従うことで人間関係が好転していくのを体感できているというものでした。

その「好転していくのを体感」する中で、より一層、信仰を深めていく、というサイクルが回っていたのだと思います。

上記のとおり、一例だけではありますが、新興宗教は、その人にとっては自身でコントロールできない、と捉えている領域において、立派に前向きな精神的作用を及ぼしているのです。

昔からある宗教においては、未来のこととか、少し遠い先のことに対して、祈願の対象となることで、精神的な作用を及ぼすのに対し、新興宗教は、そのもう少し手前、目の前の現実というものに対して、精神的な作用を、それも具体的な行動指針を通じて、及ぼしていると言えそうです。

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日本においては、新興宗教といえば何かいかがわしいものであるかのように見る雰囲気がありますが、人との関わり方の構造としては、新興宗教に入っていない人たち(=冠婚葬祭では神仏に関わる人たち)と基本的に同じといえましょう。

前回のブログにおいて、自身と宗教とのなにがしかの接点(結婚式・葬式・祭り・初詣など)から、宗教との関わり方を掘り起こしてみて、改めて宗教の構造・価値を考えてみれば、新興宗教もまた、必要とされる人には必要ということで、無くてはならぬものと思えて参りました。

少なくとも、現実が嫌になって引き籠っているくらいなら、精神的な助けを受けながらも社会で頑張れる方がいいのだと思います。

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