徳川家康に学ぶ ※運命に自分を投げ出すほど大きな経験が大人物をつくる

今年1年の目標として、『徳川家康 全26巻』(山岡荘八)を読み切るというものがあります。

そしていまちょうど5巻目を読んでいるのですが、ここで登場する歴史的なシーンは、姉川の戦い(vs 浅井長政)と、三方ヶ原の戦い(vs 武田信玄)です。

このうち、三方ヶ原の戦いで、私が特に目に留まることがありました。

それは、この三方原の戦いに臨むことが、家康の、運命に対して己を投げ出しているという点です。

武田信玄と戦えば、絶対に負ける。

そうと分かっていながらも、自分が一国一城の主ごときの小さな器ではないなら、天は自分を生かすし、そのような小さな器であれば、天を自分を殺すであろう。

徳川家康は、そんな心境で三方ヶ原の戦いの臨んでいます。

ちなみに家康の心境に関わる部分の記述はこんな感じです。

家康はもはや何も考えていなかった。

考えていることは、いかなることがあっても武田勢に屈せぬ男の存在を示すこと、ただそれ一つであった。

いや、ただ武田勢だけではない。いかなる大軍、いかなる戦略をもってしても、腑に落ちぬ相手に膝などは屈せぬ。それが家康なのだと、運命に向かい、天地に向かって叫びかける一戦だった。

運なくばみな殺しにするがよい。

そのときには生かしておいても益なきやつと、神がわざわざ裁いたもの・・・そう信じ死ぬつもりの心境だった。

また、この認識は仏教的であります。

この世に、輪廻転生の御霊が、なにか使命を持って産まれたのだとするなら、生きるも死ぬも天の意志、ということです。

今の自分の大きさは、過去の経験のすべてが形作っている

ちなみに、私の年齢は40歳ですが、この年になると、過去のすべての経験が今の自分を形成しており、どれひとつ欠けても今の自分はなかったのだ、という捉え方をするようになります。

人生航路の偶然な出来事を、必然に感じるのです。

この感覚を経験すると、いかに巨大な経験をするかどうかが、その人物の大きさを決める、ということを確信するようになります。

そうであるならば、修羅場が人を創るということは ほとんど真理なのだと感得するのです。

もう少し表現を緩めると、苦労が人を創るのです。

もちろん、それによって歪む人もいるでしょうが。。。

「修羅場をくぐらないと成長できない は本当か」、という疑問を投げる人は、ただ上にあるような経験がないから腹落ちできないだけです。

腹落ちという最高度の理解は、実経験が伴うことによってもたらされます。知識による理解はこれに遠く及びません。

ただ、自己を創る経験というのは、言うまでもなく嫌なたぐいの経験です。

で、この家康の三方ヶ原の戦いは、その嫌な経験の極みとも思えるのです。

その極みとなる経験を、自ら取りに行った家康の勇敢さに、自分には真似できない凄いことをやったのだという、ある種の感動を覚えたのでした。

修羅場について修羅場を経験しないと「仕事ができる人」にはなれない

経験と理解についてロジカルシンキングは、空海に "浅い" と結論づけられている

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