少しの昔の話ですが、
オンラインゲームを通じてなされるチャットは、まごうことなき「コミュニケーション」であるわけだから、ゲームがコミュニケーションを活性化させるとして、ゲームアプリは射幸心を煽ってカネを巻き上げるだけではなく、世の中の役に立っているという意見を、かつてのディー・エヌ・エー社長の南場氏が言っていたことを聞いて、これほどの屁理屈はないと思った記憶があります。
これと同じような屁理屈、というより、もしこれを本気で思っているとしたら、なんて浅はかな知性なんだろうと思うロジックがありましたので、記憶にとどめておきたいと思います。
それが産経新聞の12月31日付けのこの記事で、坂村健氏という方のオピニオンです。
「機械への指示」と「相手を慮るコミュニケーション」は同じではない
この記事を要約すると、ほとんど最下段に集まっていますが、私がとても違和感を覚えたのがこの部分です。
プログラミングという機械への指示において、指示を出す時点で、「何をどこまで知っているか」や「時間軸があるため状態の変化を意識する必要がある」ことが、相手の内面を慮ることと同じである
これは同じであるはずがありません。
プログラムは、あくまで「一方的」な「作業指示」であり、「双方向的」な「コミュニケーション」ではありません。
しかも肝心なこととしては、プログラミングによる作業指示は、すべて作成者のコントロール可能な範囲で完結します。
そして期待通りの挙動をするかどうかも、本人がそのように作ればそのように動きます。
が、人間を相手としたコミュニケーションは、自分ただひとりでは完結しません。経験値が豊かた人でなければコントロールも全然できません。
また日本人にありがちな、「自分が善かれと思ってやったことだから、相手もそう思ってくれるはず」ということすら通用しないのがコミュニケーションです。
このオピニオンでは、「自分で完結する機械相手の処理命令」を「相手を慮る」といった、人間とのコミュニケーションと同じである、という前提でロジックを展開しています。
この前提の置き方こそが致命的に間違っていると私は思います。
だからその後の論理展開は屁理屈的です。一応はそれらしい話ではありますが、前提がおかしいから、まったく信用できない論理です。
ちなみに、氏が言っていることはただの「設計」です
ちなみにですが、私はIT業界でプロジェクトマネージャーとして仕事をしているので、書いておくと、
この氏が言っている「相手の内面を慮る」ことや「進行度合いによりコンピューターの中の状態がどう変化していくかを意識する」のは、「設計」です。
「ある作業指示」が、となり合う作業との関係性を明らかにする作業は、「設計」作業や「事前準備」の作業であることは明白でしょう。
そんなことは、少しでも社会にでて他者と仕事をしたことがる人であれば、「段取り」などの範疇の話であることが直感的にわかるのではないでしょうか。