野村監督に学ぶ ※努力の仕方 - 「自分なりに」という敵

とうとう楽天イーグルスが、CSの本拠地開催を確定させましたね。

改めて野村監督の凄さを実感しています。

その野村監督の著書を新たに手にとってみました。

そのなかで、努力の仕方についての記述がありましたので、その部分をメモしておきたいと思います。

私自身も、何かに取り組んだことには、

 ・自分は努力したんだ
 ・自分は怠けてないんだ

と思ってしまいます。

しかしこれは往々にして、あることが欠けているということを、野村監督は云っています。

そのあることとは、

目的意識と、そこから今の自分との差を感じ、克服すべきものを明確にし、そこへのアプローチを自分なりに考えているか。

という思考プロセスでした。

それは単に、目の前の目標に対して頑張ることとは、また違った意味なのです。

---(本文より 『敵は我にあり』)---

その選手に言わせれば、「ボクだって練習もしたし、努力もしてきましたよ。決して、才能だけで野球をやってきたわけじゃないんです」ということになるのかもしれません。

しかし、彼には、何が努力というものなのか、わかっていなかったのではないでしょうか。たぐいまれなる才能に見合う成績を残すために、やるべきことは何か、はっきりつかめていなかったのではないか。

・・・(中略)・・・

ただ漠然と野球をやってきた。それで、ある程度の成績が残せたし、本塁打王にもなった。

それなりのところで、本人も周囲も妥協してきたに違いありません。

だから、タイトルを保持しつづけたり、四十本の本塁打を四年も五年も打ち続けるために、何をすべきか、どう取り組めばいいか、答えが出てこなかったのでしょう。

彼は決してなまけ者じゃないんです。

練習は、いわれたとおり素直にやります。与えられたメニューはキチンとこなす。

・・・(中略)・・・

「少し、動きが足りないな」「走りこみが不足しているようだ」―。そんな自分の調子を見抜いて、黙って自己をみがく。

それができないから、一年をコンスタントに戦い抜けないし、二、三年と積み重ねてゆくこともできなかったのです。

その選手が意識していたといえば、バッティングの量だけ。

「打ち込みたい」という意識しか、なかった。守ることも、走ることも、そして考えることも、欠落していました。

おすすめの記事